Deutsche Bahn plant Rückkehr zu Abteilen [欧州鉄道]
ドイツのDER SPIEGEL誌のWeb版にこのようなタイトルの記事が出ていました。以下にそのリンクを記します。
Deutsche Bahn plant Rückkehr zu Abteilen / DER SPIEGEL
この記事によれば、DBのICEを始めとした長距離列車の多くの利用者から、そのほとんどを占める開放室ではなく、区分室を求めているとのことです。
それに呼応する形で、DBでは再び区分室車両の開発を始めるとのことです。
考えてみれば、ICE3(403/406)やICE-T(D)(415/417/605)には登場当初区分室車両がありましたが、インテリアのリニューアルを機に区分室車両はファミリー個室を残すだけで、一般座席車両の区分室は無くなってしまいました。これはICE3の座席数を増やすことが背景にあったように感じます。
現在ICEでは、ICE1のみ区分室があるだけで、現在増備もしているICE4にも区分室はありません。
さて、DBでは現在長距離列車の標準となっている開放室ですが、ルーツはTEE時代の62系列客車Apmh 121に辿りつきます。当時は1等も2等客車も区分室が主流で、1962年に登場したF-Zug向けの1等車で初めて登場した開放室客車は編成に1両ある程度でした。しかし、徐々に区分室より開放室がもてはやされるようになり、隣国のスイスの昼行列車用車両は、ほぼ開放室になりつつあったこともあるのか、2等車についても1979年のIC/ECに開放室客車Bpmz 291が登場。陳腐化が見えていたBm235より最初から最高制限速度200Km/hを前提に設計された開放室客車の快適性が優位になり、開放室客車の割合は増えて来たように思います。
▲ Aim 260
一方で区分室客車の要望も一定数あり、それまでの閉じられた6人用区分室ではなく、1988年から登場したInterRegio客車では左右デッキ付近の5人用区分室と中央部分の10人用と15人用半区分室を組み合わせた車両が登場したり、同年IC向けに左右デッキ付近の区分室と中央部分の4人用区分室+向かい合わせ席を組み合わせたBvmz 185の登場など、新しい区分室のあり方を模索した試みがありました。
その後登場したICE1では、1両に区分室と開放室を組み合わせた室内レイアウトで登場しています
おそらく1990年代までは、開放室が主流になりつつも新しい区分室のあり方を考えていたのでしょう。
それより前の1983年にはNemeister Designが、スタディで長距離列車用の新しい区分室を提案していますが、それは5人用区分室で、仕切りはICE3同様パーテーションで仕切られた区分室でした。側廊下にも、単に移動するだけではない機能を加えた斬新な提案でした。
▲ Bvmz 185
そのような中でもICE2は全て開放室となり、それを知った時は落胆したものです。しかし、その後登場したICE3では再び区分室が登場し、それは1983年に提案した区分室同様パーテーションでしたが、その後のリニューアルで、これら区分室は撤去されファミリー個室以外は全て開放室になりました。そしてICE3(407)やICE4に当初から開放室で現在に至ります。一昨年発表されたTalgo ECxについても開放室のみの提案でした。
そしてここに来てICEに再び区分室が検討されているというこのニュースは、ちょっとした驚きでもあり嬉しくもなりました。
ただ、今回の利用者の要望というのは、様々な背景も考えられます。従来からの区分室希望もあるとは思いますが、コロナ禍ということ。更には、この記事にもあるように利用者の増加が見込まれていてそれにも対処しなければならないことです。コロナ禍はいずれ終息するので現在のような利用者減も同時に終息に向かい、環境問題から航空機からの乗客の利用シフトが予想される中で、長い目で見ると利用者の増大と列車増は織り込まなければなりません。
そのような状況下での新しい区分室車両のあり方はどのような形になるのか、今までのような単純な5人用区分室ではなく、新しいそして感染症にも対応できるインテリアが求められます。期待を持ってその登場を待ちたいと思います。
Deutsche Bahn plant Rückkehr zu Abteilen / DER SPIEGEL
この記事によれば、DBのICEを始めとした長距離列車の多くの利用者から、そのほとんどを占める開放室ではなく、区分室を求めているとのことです。
それに呼応する形で、DBでは再び区分室車両の開発を始めるとのことです。
考えてみれば、ICE3(403/406)やICE-T(D)(415/417/605)には登場当初区分室車両がありましたが、インテリアのリニューアルを機に区分室車両はファミリー個室を残すだけで、一般座席車両の区分室は無くなってしまいました。これはICE3の座席数を増やすことが背景にあったように感じます。
現在ICEでは、ICE1のみ区分室があるだけで、現在増備もしているICE4にも区分室はありません。
さて、DBでは現在長距離列車の標準となっている開放室ですが、ルーツはTEE時代の62系列客車Apmh 121に辿りつきます。当時は1等も2等客車も区分室が主流で、1962年に登場したF-Zug向けの1等車で初めて登場した開放室客車は編成に1両ある程度でした。しかし、徐々に区分室より開放室がもてはやされるようになり、隣国のスイスの昼行列車用車両は、ほぼ開放室になりつつあったこともあるのか、2等車についても1979年のIC/ECに開放室客車Bpmz 291が登場。陳腐化が見えていたBm235より最初から最高制限速度200Km/hを前提に設計された開放室客車の快適性が優位になり、開放室客車の割合は増えて来たように思います。
▲ Aim 260
一方で区分室客車の要望も一定数あり、それまでの閉じられた6人用区分室ではなく、1988年から登場したInterRegio客車では左右デッキ付近の5人用区分室と中央部分の10人用と15人用半区分室を組み合わせた車両が登場したり、同年IC向けに左右デッキ付近の区分室と中央部分の4人用区分室+向かい合わせ席を組み合わせたBvmz 185の登場など、新しい区分室のあり方を模索した試みがありました。
その後登場したICE1では、1両に区分室と開放室を組み合わせた室内レイアウトで登場しています
おそらく1990年代までは、開放室が主流になりつつも新しい区分室のあり方を考えていたのでしょう。
それより前の1983年にはNemeister Designが、スタディで長距離列車用の新しい区分室を提案していますが、それは5人用区分室で、仕切りはICE3同様パーテーションで仕切られた区分室でした。側廊下にも、単に移動するだけではない機能を加えた斬新な提案でした。
▲ Bvmz 185
そのような中でもICE2は全て開放室となり、それを知った時は落胆したものです。しかし、その後登場したICE3では再び区分室が登場し、それは1983年に提案した区分室同様パーテーションでしたが、その後のリニューアルで、これら区分室は撤去されファミリー個室以外は全て開放室になりました。そしてICE3(407)やICE4に当初から開放室で現在に至ります。一昨年発表されたTalgo ECxについても開放室のみの提案でした。
そしてここに来てICEに再び区分室が検討されているというこのニュースは、ちょっとした驚きでもあり嬉しくもなりました。
ただ、今回の利用者の要望というのは、様々な背景も考えられます。従来からの区分室希望もあるとは思いますが、コロナ禍ということ。更には、この記事にもあるように利用者の増加が見込まれていてそれにも対処しなければならないことです。コロナ禍はいずれ終息するので現在のような利用者減も同時に終息に向かい、環境問題から航空機からの乗客の利用シフトが予想される中で、長い目で見ると利用者の増大と列車増は織り込まなければなりません。
そのような状況下での新しい区分室車両のあり方はどのような形になるのか、今までのような単純な5人用区分室ではなく、新しいそして感染症にも対応できるインテリアが求められます。期待を持ってその登場を待ちたいと思います。
YEBISU BEERのアンティークラベル [ラベル]
再び祖父から貰ったビール瓶ラベルです。今回のラベルはYEBISUビールです。
1890年に日本麦酒醸造会社からエビスビールは生まれたそうです。なので既に130年以上の歴史のあるビールブランドです。
私は恵比寿駅に隣接していることからこのブランド名が付けられたと思っていましたが、実はエビスビール工場の側に駅が出来たので駅名をビールブランドから取ったそうです。また、地域名についてもビールブランドから恵比寿の名前が付けられたとか。それほどの影響力のあったビールだったということです。
それも窺い知れるエピソードとして1900年にパリで行われた万博で、ビールを出展したエビスビールが金賞を取ったそうです。この万博は、アールヌーボー博と呼ばれた時で世界初の動く歩道が会場に設置されたり、日本の絵画や伝統工芸が欧州でブームとなりジャポニズムがもてはやされた時と重なります。
さて、今はサッポロビールの1ブランドとなったエビスビールですが、このラベルの時代は大日本醸造会社時代のものです。トレードマークのエビスさまは今も昔も変わらず、ラベルの印象は古臭く感じません。
このラベルは、1908年〜1936年に使われていたようです。やはり戦前のラベルでこのような良い状態で保管されていたと感心します。
ラベルにはLAGER-BEER(ラーガービア)とあります。ドイツビールを参考に醸造したようです。
またその下には「SPECIALLY BREWED FOR EXPORT」と記されているので、輸出向けに醸造されたのでしょうか。考えてみればビールのラベルはどれも英語表記です。日本酒との違いを前面に出したかったからでしょうか。それとも国内消費よりも輸出に力を入れていたためでしょうか。もっとも日本語表記ではビールの雰囲気は出にくいかもしれません。
先にも記しましたが、エビスビール工場は恵比寿駅のすぐ脇にあり、ビールの貨物輸送用に引込線もあったと記憶しています。バブルの頃は、EF58機関車と客車数量を連結して列車ビアホールもあったような記憶がありますが、私個人は訪れていないため正確かどうかはわかりません。
今、エビスビール工場はガーデンプレイスに再開発されてしまいましたが、ここにビール工場があったことは、恵比寿の地名と駅名がその痕跡を残しているわけですね。
参考サイト:ブランドヒストリー/サッポロビール
VT628.2/928.2とLübeck Hbf [Maerklin-Allgemein]
私が留学で西ドイツに渡って最初の1年間は、Bremenの語学学校に通っていたため、授業のない週末は北ドイツのショートトリップに出かけることが楽しみでした。BremenからICで約1時間のHamburgはもちろん、春になると、陽気に誘われそこからもう少し足を伸ばしてLübeckにも出かけました。この街はBremen同様、ハンザ都市として自由な交易で栄えた歴史ある街です。上画像はリューベック中央駅のファサードです。特徴的で落ち着きのある立派な駅舎です。街の中心街は語学学校の遠足で既に観ていますが、バス旅行なので駅は今回が初めてでした。
連なるドームが特徴のリューベック中央駅です。戦前は旧東独地域からの列車も多かったはずです。ここは撮影当時、東西国境で東西鉄道連絡の1つであったこの路線の最初の西側の国境駅でもあリました。これだけの番線のある駅はかつての賑わいを思い起こさせるものです。私が訪ねた時はとても静かで閑散としていました。画像では、当時非電化だったことが理解できます。現在は電化され、ICE-Tも停車する駅です。
ドームの屋根の下には、当時最新の気動車VT628.2/928.2が停車していて、この車両に乗ってみたかった私は、ここからこの気動車の行き先であるLüneburg駅まで行くことにしました。1人で旅すると、こうしてその時の気分で行き先を決めることができる自由な旅が可能になります。
Lübeck Hbf駅もHamburg Hbfほどではないですが、コンコースが線路を跨いで2階にあり、橋上から停車している列車の俯瞰ができます。ドイツでは珍しい構造です。Hamburg Hbfと違って電化されていないので架線もなく撮影するには条件も良いです。
早速初めてこの新しい気動車に乗車しました。私は2等車の乗客ですが、誰も乗車していない1等車に足を踏み入れ車内の撮影をしました。1等車内は2等車同様開放室レイアウトで2+2の座席配置ながら1列おきに1名用の座席になっています。固定座席のため、レイアウトに工夫があり、向かい合わせ席と片方向座席の組み合わせで、様々な利用者の要望に応える努力を感じます。
軽いエンジン音を響かせながらリューベックを後にしたVT628.2/928.2は、北ドイツののどかで美しい田園風景を快走しています。車窓の風景は5月の春らしいポカポカ陽気で木々や草花の緑が美しく日本とは違う自然の豊かさを満喫できました。
リューネブルク駅に到着したVT628.2/928.2です。番号をよく見ると、トップナンバーのようです。この頃、この気動車は増備していて、2次車以降は片開き扉から両開き扉に変更されています。
今はVerkehrsrotのDB Regioが運営する気動車がほとんどでしょうが、まだ国鉄だった1989年頃は古いドイツからの脱却を試みるDBの意気込みも感じられ、この気動車もその1つであったように思います。派手なスタイルではないですが、正面の1枚窓と3つの前照灯兼尾灯で構成されたシンプルな顔は素直な造形で好感が持てました。
リューネブルク駅からは再びHamburg経由でBremenに戻ってこの日のショートトリップは満足してホームステイ先の家路に着きました。
さて、今回取り上げたVT628.2形気動車ですが、メルクリンH0からは数種類のモデルがリリースされています。Ep.IV仕様でmfx+のフルサウンド仕様は37728として発売されました。既に絶版モデルですが、地味だった存在でもあるので案外手に入りやすいかも知れませんね。
以下に、メルクリン公式ページをリンクしておきます。
Dieseltriebwagenzug BR 628.2
[Vinyl 111] 終曲(フィナーレ) / うらはら|Phew [Vinyl]
久しぶりにアナログレコードの紹介です。このアーティストPhewをご存知の方は相当のツウではないでしょうか?私も久しぶりにこの7'シングルレコードに針を落として、良くこのようなレコードを買ったなぁ...と今更ながらに当時の私を思い起こしています。
実はこの楽曲については、坂本龍一がプロデュースしています。おそらくその関係で購入したように思います。坂本龍一はプロデュースの他、Drums, Piano, Voice, Synthesizer [Prophet 5, Arp Odyssey, MC 8]での参加のようです。
ジャンル的にはニューウェーブ、アバンギャルドなどでしょうが、どことなく日本で大学生をしていた頃を思い出しました。私の通っていた大学は美大ですが、デザインとアート領域の両方があり、クセの強い学生が多かったのを覚えています。
私のいたインダストリアルデザイン領域では、割とフツー(何がフツーかは不明w)な大学生が多かったのですが、グラフィックデザインや絵画、彫刻などアート領域の学生は外観も目立つ学生(茶髪が流行る前から茶髪の学生がいたり)が少なからずいて、学園祭でもライヴはこのPhewのようなつかみどころのない、それでいて妙に心の中に入り込むようなサウンドを聴かせる連中がいたりして、美大らしい自由さを感じていました。
そうした連中と接点を持ちたかったことも、西新宿あたりの輸入レコード店街に通っていた理由の1つかもしれません。
さて、アーティストのPhewですが、その後話を聞いていなかったので、これ1曲で終わってしまったのではと思いきや、Discogsでこのレコードを検索したところ、彼女はその後もLPやCDをリリースして、昨年も新しい楽曲をリリースしているようです。現在は日本よりヨーロッパで活躍している印象です。
*Discogsのリンク先に動画が埋め込まれています。
Discogs: 終曲(フィナーレ) / うらはら|Phew
Orientrotの111形 [欧州鉄道]
ここ数回、185系定期運用終焉でその思い出ばかり記しましたが、今回はドイツで廃車解体が進む111形機関車について記したいと思います。
この機関車については、まとめページを作っていますので、メルクリンモデルについてはリンク先をご参照ください。
私がドイツに渡った1988年には新しいDBのCIを元に漸く新しい塗装色の車両が運用に就き始めていて、まだまだタルキスカラーが数多く在籍する中で、新鮮に映ったのがこの111形です。
上画像は、インスブルック西駅で撮影した111形041号機です。メルクリンから単品発売されたOrientrot色と同番号です。
画像は111形の運転台です。
111形は、それまでの機関車の運転台から人間工学の要素を取り入れた設計となり、造形上も以前の機関車より整理され見た目が随分変わりました。現在の機関車の運転台も、これがその出発点となっているはずです。
この時は、ガラス電車ツアーに申し込んだものの故障で乗車できず、代走としてやってきた機関車でした。目的地駅のオーストリアのÖtztal駅で、ツアー参加の希望者には運転台見学もさせてもらいました。メルクリンモデルと同番号ということもあって、ガラス電車に乗れなかった悔しさも、ツアーガイドさんの献身的なホストぶりとサービスに幾分晴れた思いになりました。
111形は廃車が進んではいますが、既にトップナンバーはオリジナルのタルキスカラーでDB Museumで動態保存されています。廃車されているのはほぼ全てVerkehrsrotのようですが、このOrientrotも1機程度は残して欲しいなぁ...と思います。
185系200番台 [日本の鉄道]
前回185系の定期運用終了に合わせて、1981年のデビュー当時から特急「踊り子」の運用開始までについて記してみましたが、翌年高崎線、東北本線向け165系車両の置き換えと、上越・東北新幹線大宮暫定開業に合わせて運用が予定されていた上野駅と大宮駅を結ぶ「新幹線リレー」号の新設に合わせて新製増備された185系200番台にも興味津々でした。
そして、その登場が待ちきれず東急車輛(現JTREC)で新製された時に行う試運転を当時の私ができる限りの情報を入手して撮影に赴きました。実はそれ以前にも201系の新製試運転を撮影していたので、どこを走るのかということと試運転スジ程度は理解していました。
画像は、大船から鎌倉方面に向かって試運転を行う出来上がったばかりの185系200番台です。185系といえば、緑色の斜めストライプが印象的で、この200番台が違う出で立ちで登場することを知っていたかどうか..については記憶に残っていませんが、兄弟車両の117系の茶色帯に対して緑帯のこの電車を初めて見た時のインパクトは大きかったです。
当時ふだん使いのTRI-Xではなく、高額だったコダクローム(KR)を使って撮影したのですが、折角の新車の鮮やかな色を残したかった気持ちからでした。
その後。この電車が運用開始にあたって所属車両区に入区する際にも新前橋駅まで出かけて入区を確認したのが上画像です。塗装色の違いのほか、サイドのJNRマークが窓上にレイアウトされ、この位置は0番台より好みでした。
この時は何故かあまり使わないネガカラーフィルムでした。(上下の画像の色調の違いがハッキリ出てますね)
運用が開始され、初日に上野駅にも行きましたが、残念ながらその時のフィルムは未発見です。乗客としてホームに並んでいた人たちは初めて見るグリーン帯の車両に驚いたようですが、当時グリーン車の薄緑色帯が廃止されていたにも関わらず、普通車のドア前でグリーン車ではないか?と乗車を躊躇っていた乗客がいたのを覚えています。
グリーン帯の185系200番台は暫く高崎線や東北本線の急行や普通列車の運用につき、新幹線リレー号としても活躍、その後の急行運用は東海道本線の「東海」同様消滅。新特急という急行より停車駅の多い謎の格下特急が新設され運用開始。また私が渡独後、塗装色も変更となり、その後はリバイバル塗装やレトロ塗装などに変わった塗装色も、このオリジナルの塗装色には戻ることがなく現在に至っています。
1編成程度はこの塗装色もあって良かったと思いますが、そのお陰でこの記録写真も撮影した甲斐があったというものでしょう。
185系特急「踊り子」の終焉にあたって [日本の鉄道]
久しぶりに日本の鉄道の話題を記したいと思います。今日、3月12日を持って185系による特急「踊り子」の運用が終焉するとのことで、1981年10月1日のダイヤ改正で登場した185系による新しい名称「踊り子」が誕生してから40年弱、走り続けたこの車両もいよいよ終焉を迎えるということで、おそらく今日の沿線や駅はにわかファンも含めて大賑わいでしょう。願わくばこれに関連した事故など起こらないことを願うばかりです。
さて、私は今でこそ鉄道写真を撮影にゆくようなモチベーションもないのですが、この特急「踊り子」が登場した当時、浪人生で予備校に通う傍、良く鉄道写真を撮影に出かけていました。
185系電車は、153系電車の置き換えを主目的にちょうどその少し前にデビューしました。デビュー当時は、オランダ国鉄(NS)の塗り分けに影響を受けたと考えられる白にグリーンの斜めストライプの斬新なカラーリング、急行「伊豆」などとその間合い運用の普通列車に使われるなど、153系電車から大幅にグレードアップしたアコモデーションで、その登場にワクワクしたものです。私が撮影にゆく目的はほぼEF58でしたが、出会うと撮影したものです。
写真は、ダイヤ改正初日の特急「踊り子」です。生憎のお天気でしたが、しっかり撮影に出かけていました。
この185系電車は、それまでの153系/165系、高運転台の183系とも違う非貫通車体で、どちらかといえば、登場前に終焉した157系のような出で立ちに興味を持ちました。157系電車も153系電車と同じ車体断面、当初は準急で登場し、151系の特急「こだま」とは違う立ち位置で、供食設備もなく日光や伊豆方面、夏季には軽井沢などへの比較的短い距離を担う車両でした。しかし、食堂車こそついていないものの、当時の151系電車と同じクロスシート車両で準急や急行運用では贅沢感のある車両と感じていましたし、カラーリングも特急色で特急「あまぎ」としての運用は、ちょうどぴったりな感じでした。
上の画像は、153系低運転台と高運転台のクハ同士の連結部分です。特急「踊り子」運用が始まる前までは、153系電車との併結運転が行われていましたが、流石に153系は特急運用には入れないので、この光景も特急「踊り子」運用開始以来見られなくなったと思います。
さて、185系は、153系電車と同じ車体断面のため、連結してもさほど違和感がないですが、185系の前面窓は特急エンブレムのある緑色に塗装した部分が1段低くなっていて、この部分の下のラインがちょうどクハ153低運転台の下部分のラインに合っています。一方でクハ153 500番台(高運転台)は、クハ185の窓の下のラインに合っています。この辺りの寸法は153系との併結を前提として設計されたことと読み取ることができます。(偶然かもしれませんが)
少し前に185系の湘南色が1編成登場しましたが、この塗装色と153系を併結させてみたいと思いました。
その後ダイヤ改正で急行「伊豆」の特急格上げが発表され、185系電車は特急「踊り子」として運用され、急行運用はこれに伴い廃止となりました。停車駅などは急行時代と変わりなかったように思いますし、変わるのは名称変更に伴ったヘッドマークの絵柄ぐらいだったでしょうか。要は種別変更で収入アップを狙った国鉄営業の方針によるものと聞いています。登場時から特急のヘッドエンブレム、幕式ヘッドマーク、JNRの切り抜きマーク、185系という特急形式を与えられたので、特急運用を視野に入れて製造された車両ということは薄々感じていましたが、特急種別の車両としては、リクライニング無しの転換クロスシートやよりアコモデーションの良い183系「あまぎ」が185系「踊り子」に統合され、同じ特急種別にすることに自身は大いに違和感があったことを覚えています。
また関西では一足早く、兄弟車とも言える117系電車が登場し、デッキこそないものの特別運賃なしで俊足で走るサービスもあって特急種別の185系電車には複雑な思いは拭えきれなかった記憶があります。
写真は、後に条件の良い日に撮影した特急「踊り子」です。
最後に185系とは関係ないですが、特急「踊り子」繋がりでEF58+14系客車の臨時特急「踊り子」が運転された時の写真です。特急の名に恥じないヘッドマークを掲げて走るこの列車はゴハチを追いかけてた私には絶好の被写体でした。当時185系よりもアコモデーションが良いとされていた14系客車ですし、何故かロイヤルエンジンの61号機の牽引が多かったのも嬉しかった思い出です。
185系電車は定期運用から外されるとのことですが、まだ暫くは臨時列車などで運転される機会もあるので終焉ではありませんが、今日は終焉に向けた区切りの日であることには間違い無いのでしょう。
今日の昼のテレビニュースでも185系「踊り子」の最終運用についての報道があってたくさんのファンが詰めかけていたようですが、撮り鉄をやめている私は、運用開始当時の思い出と一緒に185系電車と特急「踊り子」のブログを記しながら思いを馳せることにしました。
UNION BEERのアンティークラベル [ラベル]
祖父から譲られたビールのアンティークラベルはKIRINだけではなく、KIRINのライバルであったであろうユニオンビールもその1つです。
今では、このビール名も消えてしまったのですが、ルーツを辿ると現在のアサヒビールやサッポロビールと同じ大日本麦酒に行き着きます。
「シトロン」や「リボン」のブランドや三ツ矢サイダーのロゴマークもユニオンビール下で流通されていたようです。オークションサイトで検索すると、当時のユニオンビールの名前やラベルデザインの付いた販促アイテムなどが見つけられるので、1930年代当時には、知られたビールブランドではなかったかと想像できます。
戦後はこのブランドも消滅し、残ったサッポロビール、恵比寿ビール、アサヒビールなどが分社化してそれぞれの道を歩み、また合併をしたりと、日本のビール業界は黎明期から様々な歩みが見られたことをこのユニオンビールのラベルから窺い知れました。
さて、そのラベルデザインですが、最初の画像はビール瓶上部に貼られていたであろう横長のエチケット(肩ラベル)で、カタカナ文字は右から左に書く戦前らしいもの。下の画像はビール瓶中央に貼られるもので、ちょっとドイツ・ブレーメンのBECK'sのラベルデザインに似た部分を感じます。ラベル中央に描かれたUNIONの文字の後ろに天使のように羽の生えた姿の女性は植物(月桂樹?)の冠を手にしています。後光も差しているので、ギリシャ神話に出てくる神様の1人ではないかと推察できますが、確認はしていません。
上部には「BEST LAGER BEER」(最高のラーガービール)下には「NIPPON BEER KOSEN Co.. LTD. TOKYO. JAPAN」(日本ビール鉱泉?東京・日本)と記されているところは大日本麦酒との違いが浮かび上がってきますが、その理由などはわかりません。
こうしてみると、日本でも戦前から麦酒産業はあり、そこそこ庶民に愛されてきたことは理解できますが、歴史としてみると当たり前ながらドイツのビール業界とは違い、まだまだ歴史は浅い感じもします。
だんだん日本ビール史のような趣になってきました。
[絵画] 人形 (2) | 井上賢三 [ART]
「人形」カンバス 油彩
京都に行った亡き父の2枚目の人形の絵です。
これも1枚目と同様、晩年の作品。ヨーロッパの民族衣装を纏った人形を描いたものです。最初はフランスのアルザス地方の民族衣装かと思いましたが、頭の部分の形が違うのでどうやら違う地域のようです。
私がドイツに渡ってからも、もし父が生きていて画家をしていたとすれば、きっと人形を送れと頼まれたに違いありません。
晩年の父がどのように絵を描いていたのか、少し思い出してきたので書き記しておこうと思います。
私が幼少の頃は、一軒家の借家住まいだったと思います。家主は父のパトロンだったと聞いています。その場所は現在アークヒルズの敷地にあるサントリーホールになっているところです。その家は、建物自体はそれほど広くはなかったものの、(子供の目には)庭がジャングルのような深い森のようになっていて、幼かった私は建物と木々が生い茂る場所までの小さな庭でしか遊びませんでした。
その後、(アークヒルズ再開発により)立ち退きにあい、近所のマンションに引っ越していますが、ここでは絵を描くスペースはなかったように思います。そこで父はなんと渋谷区富ヶ谷に物件を見つけそこをアトリエにして通うようになりました。そこは1階が倉庫になっていて2階をアトリエとして使っていました。酷く古くてお世辞にも綺麗なアトリエではありませんでしたが、とにかく広い一間の空間で、そこで二科展に出品するような大きな絵も描いていたと思います。一時期は19ftヨットもこのアトリエで作ったくらいですから、その広さは理解できると思います。
私が小学校3、4年生の時、通っていた小学校のあった千代田区の施設が鎌倉にあり、風邪をひきやすかった私は、それを理由に2年間東京を離れます。両親が共働きだった私は、全寮制の施設にいたことで、両親が自由に好きな仕事に打ち込めたと今は考えています。
私が小学校5年生になったとき、六本木のマンションから少し広い間取りの赤坂に引っ越しました。そこでは1部屋を父の自宅アトリエとして使い、富ヶ谷と赤坂を通勤(というほどではないでしょうけど)していました。自宅でここにあるような比較的小さいサイズのカンバスの人形の絵を描いていた父が記憶に残っています。
その後父は肝臓ガンを発症、途中寛解期は自宅に戻ったこともありましたが、入退院をしながら私が中学1年の時、私が盲腸になって入院手術した時にいた同じ病院で父は息をひきとりました。子供だった私は何も知らされておらず、必ず治って退院すると信じていたのでショックは大きかったです。
あれから既に50年近く経っていますが、父との思い出は私が中学生になるまでのほんの僅かな時間でした。私の記憶には酒を嗜む父の記憶がありませんが、戦後の混乱期に飲んだ酒が原因で肝臓ガンになったのではと聞いています。おそらく父は息子の私と酒を酌み交わすことを楽しみにしていたのではと思いますが、それは叶わず、私自身も下戸に近い人間で息子と酒を酌み交わすのが楽しみ..とまではゆかないですが、既に実現している私は、そういう時、父のことを思い出すのです。
BahnGlanzLicht - Die Dampflokomotive [欧州鉄道]
このブログでも時々話題として登場するドイツの鉄道放送モデレーターのHagen von Orthoffさんが、南西ドイツ放送局を退職されて久しいですが、現在はYouTubeに独自のチャンネルアカウントを持ち、時々興味深い鉄道関連の話題をアップされています。
今回アップされたのは、75年前(1946年)に発刊された「Die Dampflokomotive(蒸気機関車)/ Otto Remmert著」という挿絵付きの本についてです。
以下にそのYouTubeリンクを貼ります。
BahnGlanzLicht - Die Dampflokomotive
この映像をご覧になれば理解はすぐにできると思いますが、蒸気機関車がどのような構造になっていて、その動きの源の構造をわかりやすく美しい挿絵とともに解説しています。
その挿絵ですが、表紙の絵を見てすぐに馴染みのあるタッチであることがわかります。作者は Josef Danilowatzで、長くメルクリンカタログの表紙の挿絵を描いていた作家です。写実的な精密な描写ではありませんが、しっかりと構造を理解した上で印象深く観るものを惹きつける力を持った絵が魅力的です。
随分昔の話になりますが、メルクリン本社の階段室だったかに数枚のメルクリンカタログになった彼の絵の原画?が額装されて飾られていたのを覚えています。
そして、この本の表紙の絵ですが、実はメルクリンカタログに掲載されていたものと同じようです。
この絵はモチーフとして2011年のIMA会場で販売された貨車のモチーフにもなっています。トリミングしているのですが、トンネルの中から観た走ってくる列車の絵だということがわかります。
日本でもこうした挿絵の入った図鑑はありますが、1946年発刊と言えば戦後間もなくのこと。ドイツも日本も敗戦の復興が始まったばかりの頃と思われます。そうした中でもこの本の存在が興味深いですし、Hagenさんが素晴らしい本として紹介したくなる気持ちも理解できるところです。
今回アップされたのは、75年前(1946年)に発刊された「Die Dampflokomotive(蒸気機関車)/ Otto Remmert著」という挿絵付きの本についてです。
以下にそのYouTubeリンクを貼ります。
BahnGlanzLicht - Die Dampflokomotive
この映像をご覧になれば理解はすぐにできると思いますが、蒸気機関車がどのような構造になっていて、その動きの源の構造をわかりやすく美しい挿絵とともに解説しています。
その挿絵ですが、表紙の絵を見てすぐに馴染みのあるタッチであることがわかります。作者は Josef Danilowatzで、長くメルクリンカタログの表紙の挿絵を描いていた作家です。写実的な精密な描写ではありませんが、しっかりと構造を理解した上で印象深く観るものを惹きつける力を持った絵が魅力的です。
随分昔の話になりますが、メルクリン本社の階段室だったかに数枚のメルクリンカタログになった彼の絵の原画?が額装されて飾られていたのを覚えています。
そして、この本の表紙の絵ですが、実はメルクリンカタログに掲載されていたものと同じようです。
この絵はモチーフとして2011年のIMA会場で販売された貨車のモチーフにもなっています。トリミングしているのですが、トンネルの中から観た走ってくる列車の絵だということがわかります。
日本でもこうした挿絵の入った図鑑はありますが、1946年発刊と言えば戦後間もなくのこと。ドイツも日本も敗戦の復興が始まったばかりの頃と思われます。そうした中でもこの本の存在が興味深いですし、Hagenさんが素晴らしい本として紹介したくなる気持ちも理解できるところです。