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[絵画] 人形 (3) | 井上賢三 [ART]

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亡き父の遺した人形の絵の3枚目になります。この絵はおそらく人形を描き始めの頃の作品だと思われます。今まで紹介した2枚は金色の額縁で背景には全面に金箔が貼られているのですが、この絵はステンレスの額縁で左右にはモノトーンの油彩で幾何学的です。また背景の床面はチェックの文様でそれより上の部分は金箔が貼られています。つまりそれまで描いていた絵の残り香がこの絵にはあるように感じています。

父が人形を描くまでは、師匠であった東郷青児氏の影響が少なからず出ていて、母はそれを危惧していたようです。その転換点に描いた絵ではなかったかとこの絵を眺めながら感じました。
亡父が人形という新しいモチーフにどのような経緯で辿り着いたのかを知ることは出来ませんが、この後は人形一筋で最晩年まで描き続けていました。

今なら彼に聞きたいことは沢山あるのですが、他界した時中学1年生だった私には、そのような思いは全くなく、今は想像するしかありません。
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[絵画] 人形 (2) | 井上賢三 [ART]

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「人形」カンバス 油彩

京都に行った亡き父の2枚目の人形の絵です。
これも1枚目と同様、晩年の作品。ヨーロッパの民族衣装を纏った人形を描いたものです。最初はフランスのアルザス地方の民族衣装かと思いましたが、頭の部分の形が違うのでどうやら違う地域のようです。
私がドイツに渡ってからも、もし父が生きていて画家をしていたとすれば、きっと人形を送れと頼まれたに違いありません。
晩年の父がどのように絵を描いていたのか、少し思い出してきたので書き記しておこうと思います。

私が幼少の頃は、一軒家の借家住まいだったと思います。家主は父のパトロンだったと聞いています。その場所は現在アークヒルズの敷地にあるサントリーホールになっているところです。その家は、建物自体はそれほど広くはなかったものの、(子供の目には)庭がジャングルのような深い森のようになっていて、幼かった私は建物と木々が生い茂る場所までの小さな庭でしか遊びませんでした。

その後、(アークヒルズ再開発により)立ち退きにあい、近所のマンションに引っ越していますが、ここでは絵を描くスペースはなかったように思います。そこで父はなんと渋谷区富ヶ谷に物件を見つけそこをアトリエにして通うようになりました。そこは1階が倉庫になっていて2階をアトリエとして使っていました。酷く古くてお世辞にも綺麗なアトリエではありませんでしたが、とにかく広い一間の空間で、そこで二科展に出品するような大きな絵も描いていたと思います。一時期は19ftヨットもこのアトリエで作ったくらいですから、その広さは理解できると思います。

私が小学校3、4年生の時、通っていた小学校のあった千代田区の施設が鎌倉にあり、風邪をひきやすかった私は、それを理由に2年間東京を離れます。両親が共働きだった私は、全寮制の施設にいたことで、両親が自由に好きな仕事に打ち込めたと今は考えています。
私が小学校5年生になったとき、六本木のマンションから少し広い間取りの赤坂に引っ越しました。そこでは1部屋を父の自宅アトリエとして使い、富ヶ谷と赤坂を通勤(というほどではないでしょうけど)していました。自宅でここにあるような比較的小さいサイズのカンバスの人形の絵を描いていた父が記憶に残っています。

その後父は肝臓ガンを発症、途中寛解期は自宅に戻ったこともありましたが、入退院をしながら私が中学1年の時、私が盲腸になって入院手術した時にいた同じ病院で父は息をひきとりました。子供だった私は何も知らされておらず、必ず治って退院すると信じていたのでショックは大きかったです。

あれから既に50年近く経っていますが、父との思い出は私が中学生になるまでのほんの僅かな時間でした。私の記憶には酒を嗜む父の記憶がありませんが、戦後の混乱期に飲んだ酒が原因で肝臓ガンになったのではと聞いています。おそらく父は息子の私と酒を酌み交わすことを楽しみにしていたのではと思いますが、それは叶わず、私自身も下戸に近い人間で息子と酒を酌み交わすのが楽しみ..とまではゆかないですが、既に実現している私は、そういう時、父のことを思い出すのです。
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[絵画] 人形 (1) | 井上賢三 [ART]

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「人形」カンバス、油彩

メルクリンの鉄道模型を期待している向きには、退屈な記事かも知れません。

私の父は私が13歳(中学1年生)の時に肝臓ガンで亡くなりました。父は明治生まれで戦争にも行っていたこともあって、結婚が遅く私が長男として生まれたのは彼が50歳過ぎてからでした。そのためか、私は父から甘やかされて育てられたのかも知れませんが、父から怒られた記憶はほとんどありません。

父は洋画家で、読者の方はご存知の方もいらっしゃるかも知れませんが、画家東郷青児の愛弟子で、彼が会長だった二科会では審査員をしていました。

父が死んでも彼の描いた絵は我が家に何枚かの絵が残っていて、今まで倉庫で眠っていましたが、今日ご縁のあった父の出身地の京都の古美術商にほとんどの絵を預けることにしました。
これも何かの縁でしょう。私は我が家にあった父が描いた絵は今日生まれ故郷に戻ったと考えています。

しかし、折角なので京都に戻る前に家にある全ての絵の写真だけは残しておこうと撮影をしました。そして今日から時々合間を見ながら彼の絵をこのブログで紹介しようと思っています。

この絵は、彼が晩年に描いた人形の絵です。それまでは風景画や人物画、また好きな魚の絵を描いていましたが、私が小学校低学年頃から人形の絵を描くようになり、それ以来最後まで人形を描いています。それはドイツのSchwarzwaldやフランスなどの人形で母が仕事で欧州旅行に行った時、それこそ沢山の人形を父のために仕入れてきました。ちょうどその時私にはメルクリンH0の貨物列車セット(3500)をお土産に買ってきたのですから、さぞかし超過荷物の支払いに大変だったと思います。

父の名は特に有名でもありませんでしたし、商売上手でもなく絵の描くスピードが早かった訳でもありませんが、それゆえ現存している絵は限られていますし、丁寧な画風は気に入る人もいるでしょう。(父が生存していた当時は、ファンもいたようですw)

今や誰もが知るような有名な画家も死後ずいぶん経ってから再評価されることもあると聞いています。それも絵を観ることで評価されるのですから、息子の私がそのキッカケの1つを用意するのは父に対する供養かも知れないと思い、今日から少しづつですが、絵画についてもアップしてゆこうと考えています。
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