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特急"燕"とその時代 [日本の鉄道]

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先週の水曜日、丁度1週間前のことである。群馬県民の日(ついでに栃木県民の日でもある)とのことで学校が休み、翌日も創立記念日とかで2日連続の休みだそうだ。中学生の娘は勝手に友達と約束をしてディズニーシーへ遊びに行きたいとかで、我が家ではいつもながらのすったもんだがあった。要は中学生の娘も含めて数人だけで東京(千葉)迄電車を乗り継いで行かせて良いものか?...と言うもの。

結局、(いつものように?)親の方が折れて...いや、しかし心配なので結局ディズニーシー最寄り駅のJR舞浜の送り迎えを私が行うことととなった...トホホ。
私にとっての問題は、送り迎え以上に送ってから迎えまでの時間である。自宅へ引き返す程の余裕もなく、ここは考え方を改めて東京を楽しもうということにしたのであるが...。

結果、今まで行ったことのなかった旧新橋停車場(汐留貨物駅)跡地に行くことにした。
早朝中学生達と待ち合わせてロングシートの普通列車で約100Kmの道のりを一路上野駅へ...平日なので途中から通勤通学ラッシュである。上野から東京までの山手線はさらに凄まじい。このようなラッシュは何年ぶりであろうか?京葉線は始発駅+通勤ラッシュとは反対方向なのでゆったりと舞浜駅へ行き、子供達を見送って1人東京へと戻る。

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さて、新橋駅から地下を通ってすっかり様変わりした旧汐留貨物駅跡地へと行くと巨大なビルに囲まれた瀟酒な欧風の建物が見える。それが再建された旧新橋停車場の建物となっている。跡地に建てたため位置的には同じであると聞いているが、至近に巨大ビルがあるため、当時の雰囲気を味わうにはちょっと難しい。
画像では、遠方からの写真が撮れずどうしても部分的にしか画角が取れないので中央部分のみの画になってしまったが、左右に2階建ての建物があるシンメトリーのものである。ここからは私見であるが、この旧汐留地区再開発の計画をメディアが報じた時、残念な思いで仕方がなかった。この広大な敷地こそ、交通博物館として当時のまま再現し、動態、静態を含めて展示と共に蒸気機関車列車などを各地に走らせるための基地にして欲しかったからである。幸い、旧駅舎跡が残っていたためその建物だけは再現、保存されたが、その他の施設は全てビルになってしまった...。

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この場所に到着したのが午前10時前のこと。てっきり10時には開館されるものと思い込んでいたが、11時開館とのことで暫く外観を見て回ることに...。先程の正面から後ろに廻るとプラットホーム跡に再現された少しばかりのホームが見えるが、駅舎からホームへのアプローチがとても素敵である。ちょっとそこだけを見るとヨーロッパの19世紀に建てられたリゾートホテルのダイニングテラスのようである。今は、ここにライオンが店舗を構えている。

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ホームの突端から見た画像である。このホームは現在の鉄道用ホームと同じぐらいの高さになっているが本当だろうか? おそらくレールから800mmぐらいはありそうである。今でもドイツでは550mmのホーム高が普通なので、やはり本当は380mmとかその程度ではないかと思うのだが...。(それとも、これは旧汐留貨物駅の時のホーム高?)

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申し訳程の線路と旧ゼロキロポストである。ここから動態保存の蒸気機関車列車が発着出来るような設備が整えられたらと...今でも思うのである。

そして、ようやく館内に入りお目当ての展示である「特急"燕"とその時代」を見学した。その内容は特急「燕」の始まりから太平洋戦争の運行休止に至るまでと、戦後の「つばめ」に至るまでの列車を中心にした時代背景に迫るという企画展である。展示室が海側建物2階部分だけなので、どうしても大規模なものは出来ないが、そこそこ興味深い内容であった。

特に「燕」のネーミングは、スピードを標榜するに相応しい列車が登場するまで温存させておいたというあたりは面白い。当時、東海道本線が電化されていたのは国府津迄であったが、機関車交換の時間を節約するために東京からC51と炭水車を連結させて国府津駅では30秒停車で後補機を連結させたというのは、驚いた。以前箱根の峠越え(今の御殿場線)で頂上付近でこの後補機を走行解放したり、機関士などの要員交代は客車から走行中に乗り移るなどの離れ業があるのは聞いていたが...。他にわからなかったのが、炭水車からC51にどうやって走行中給水できたのであろうか?

不明な点も少なからずあったが、停車駅を極力少なくし表定速度を時速20キロ以上上げたのは特筆に値しよう。またこれは、特に新しい技術を使うでもなく運用とやりくりで実現したことは、当時のドイツでもSVTを使った"Fliegender Hamburger"が、その車両の俊足性能以上に運用面での工夫でHamburg - Berlinを短時間で結び、ABS(Ausbau Strecke)に路線改良した上でICEの運用が始まる迄その記録が破られなかったことに通じるものがあろう。

展示室には1/80モデルの当時のC51牽引の「燕」編成があったが、スピード化のための短編成など模型向きだと感じた。他に当時のダイヤグラムや食堂車のメニュー2種などが目を惹いた。食いしん坊の私が興味を牽いたのはその2種のメニュー(お品書き)である。特にMENU(定食)と記された1枚のお品書きはフルコースで、まさに欧州のCIWLやMITROPAの食堂車で供されていたものと同様、前菜からデザート、コーヒー迄の完全な洋食(仏料理?)である。上に仏語、下に日本語でその内容を記されていることからも、その当時洋食は英語ではなく仏語が常用されていたことからも、その食事を口にすることが出来たのは限られた階級のだけの御用達であったことが伺える。また、当時の欧亜連絡(東京-神戸-欧州)の一端を担っていたことも、これら資料から読み取れる。ただ、その食事そのものが欧州のものと同様であったかどうかはわからないが...。

そのような資料を、再建された建物とは言え旧新橋停車場の歴史ある建物の中で眺めていると、当時の世界に脳内トリップできてしまうのである。それ自体がこの展示から得られたものであるように今思うのである。

ところで、この素晴らしい建物の1階に「ライオン」というビアレストランがある。新橋駅にも近く広いのでオフ会向きかも知れないと、思ったのであるが...。

参考サイト:旧新橋停車場
http://www.ejrcf.or.jp/shinbashi/
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コメント 4

東西急行

Akira様、御無沙汰致しております。東西急行です。
本年末以降始まるであろう「ワゴンリ隊再編」に向け予算編成に目が回る日々です。
お題の「燕」は省鉄が超特急として其の速度を世に問うたことで著名な列車ですし、停車駅の絞り込みに走行しながらの機関車付け外し等の挑戦が随所に見られる点が特異性を際立たせてくれます(なお姉妹列車は他ならぬ「鴎」です)。
余談乍ら幾ら気張っても60km/時が限度であったことが、満鉄の超特急「あじあ号」に於ける奮起を促した一因でも有った様です
(尤もあじあ号は郵便荷物車を除く全客車完全空調こそ評価すべき点であり、最高速度120km/時=軌道条件の良い区間限定については漸く列国の際下限に辿り着いたレヴェルでしか無いと突き放す見方が過半)。
省鉄の食堂車事情については、私の手元にも有ります
「食堂車の明治・大正・昭和(かわぐちつとむ著、グランプリ出版刊)」
に概要が載っております。
御紹介の「MENU(御定食)」は品書きの大層な名称と実際供されていた献立の中身が相当懸絶した代物(前菜=薄く切った生野菜と薫製肉か何かを単に丸い皿に並べただけ等)故、無性に寂寥感を駆り立てられました。

by 東西急行 (2009-11-04 21:59) 

Akira

東西急行さん、こんばんは。
コメントありがとうございます。ご紹介の食堂車の本は興味深いです。実際フランスのレストランで供されている食事にしてもピンキリですからね。仏語で記されているからと言って高級とするのは偏見かも知れません。ただ、当時食堂車でフルコースを食することが出来た乗客は、やはり特別な人だけだと思われます。彼らの口を満足させられたかどうかは別ですが....。
by Akira (2009-11-04 23:13) 

klaviermusik-koba

私も見たいと思っていますがまだ実現していません。新橋の広大な敷地を交通博物館に、というのは私も賛成ですが、ただあの1等地を経済優先の国が遊びに使う(あえて言えば)とは考えないでしょう。

「燕」給水貨車はヨーロッパでもテンダーを2両連結する例は古来ありましたから、専用のパイプを通すなり、なんなりの解決策はあったものと思われます。ただ格好はいま写真で見ても看板列車にはふさわしくないものですがスピードという背に腹は替えられなかったのでしょう。

冷房に関して言えば、いつからかはわかりませんが、3等級時代の1等車、1等寝台車には冷房があったようです。原理は簡単で、氷を大量に積み込み、それで冷やされた水を循環させた、というものらしいですがその程度のものでどのくらい冷房効果があったかはわかりません。まあ先日ブログでご紹介したウィルヘルム2世の客車に水をかけて冷やす、くらいのものではなかったのでしょうか。 

正式に切符を買って、ではなかったのですが戦後の「つばめ」の1等展望車はスロ60の乗客であった私は車掌に頼んで、たまたま乗客がいなかったのでしばらくの間のせてもらい、展望台にもたった記憶はあります。あの展望台についていたシンボルマークの標識、欲しいなあ、と思いながら。大学卒業間もなくの頃でした。
by klaviermusik-koba (2009-11-05 09:44) 

Akira

こんばんは、klaviermusikさん。

展示そのものはそれ程深くは追求されていませんので気軽に見ることのできるものです。当時の世相などもわかり易く展示物で表現されていますので、興味深かったです。

大宮に交通博物館のできた今となっては、私の希望など戯言にしか聞こえませんが、汐留貨物駅跡地の再開発計画を新聞で知ったときは、残念でなりませんでした。1972年?だったかの鉄道 100年の時、この駅から蒸気機関車列車が走ったのを当時寮生活だった私は当然のことながら参加することも出来ず、ただ指をくわえて当時の様子をメディアで見聞きするしかなかった悔しさもあるのかも知れません。
確か本格的に再開発を行ったのはバブルがはじけてからだったかも知れませんが、あのような一等地に博物館なんて、経済を知るものからすれば一笑にふくされるのは至極当然でしょう。しかし、もしあの場所にあの規模で動態と静態の鉄道史料の数々が展示され保存されたら、それこそ世界に誇れる鉄道博物館の一つに数えられたと思います。これは経済というより文化的な価値だと思う訳です。

まさに停車場建物を囲む隣のビルの1階にはポルシェのショールームがあります。でもポルシェよりビルのない空間の方が良かったと感じました。

さて冷房ですが、確か当時は1等車(展望車)と食堂車に冷房があったと記してあったと思われます。でも構造は当時の冷蔵庫と同じだったのですね。冷房はないよりマシと言えましょう。

スロ60(展望車)に乗られたとは...。展望台のつばめマークも展示されていたと思います。東京駅の出発前に展望台に立って外を眺める...ことは、逆にホームから羨望の眼差しで眺められる立場にあったということです。階級社会は良くないと言うのも理解できますが、本当に良いものはそのような社会があって初めて生み出されるものなのかも知れません。

いつもながらの経験談と鋭い考察ありがとうございます。
by Akira (2009-11-05 20:23) 

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