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Ostende-Köln-Pullman-Express ? [Maerklin-Allgemein]

昨日だったかFacebookのメルクリンアカウントから興味深い画像が掲出された。それは以下のコメント付き画像。
Grüße aus #Göppingen.

想像の域を出ない話ではありますが、この画像はドイツファンに向けて美しいCIWLプルマン客車をDRGの蒸気機関車BR03に牽引させた編成で、実際にこうした列車が走ったという実証など、特に深い考えはなく掲出したと思うのですが、戦前DRG時代の03形機関車に牽引される美しいCIWL客車編成の良く似合う姿に、もしかしたら実際にあったのではないか...と、ちょっと調べてみました。

CIWLは、当時から欧州を中心に寝台や食堂車の車両とサービスを担っていましたが、もう1つ供食機能を持つサロンカーでもあるプルマン列車の車両とサービスもCIWLの華として欧州各地で走っていました。その1つがメルクリンからリリースされた"EDELWEIS-PULLMAN-EXPRESS"で欧州のオランダ - スイスを結ぶ昼行列車でした。CIWLは、オリエント急行やル・トラン・ブルーなど寝台列車の夜行列車、そして昼行のプルマン列車は、航空旅客機が黎明期だった当時、これらCIWL車両だけで組成された列車は、ブルジョア階級以上の御用達でもありました。

さて、画像の話に戻りますが、戦前ドイツはDRG(ドイツ鉄道公社)傘下のMITROPAがCIWL同様、寝台と食堂車の車両とサービスを行っていて、ドイツ国内(と言っても戦前はソ連国境までドイツ領だったりします)は、MITROPAの営業エリアだったことは容易に想像ができます。
とは言え、CIWL車両は一切ドイツ領に入線しなかった訳ではなく、主に夜行の国際列車では戦争勃発まで多くの列車がドイツと連絡していました。

ただ、昼行のプルマン列車が03形に牽引されてドイツで走っていたか?ということに対しては、今まで全く調べていなかったこともあり、この画像を観た瞬間から興味を持ってしまいました。ワーグナーデフの03形は矍鑠とした美しさと重厚さを持つ機関車で、ヴィッテデフの03形とは印象が全く違います。

Ostend-Cologne-Pullman,_1931,_Southern-n.jpeg

▲ "Ostende-Köln-Pullman-Express"の時刻表つきチラシ Quelle: Wikipedia

そこで、CIWLのプルマン列車がどれほどの路線で運用されていたか調べてみると、列車名を持つ26列車が存在していたことがわかりました。有名どころでは、"EDELWEISS-PULLMAN-EXPRESS"のほか、(London-) Calais-Parisを結ぶ"Flèche d’Or"やカッサンドルのポスターで有名な"Étoile du Nord"がありますが、これら列車は、フランス、ベルギー、スイス、イタリア、ルーマニア、エジプトなど主にラテン系諸国が欧州CIWLの昼行列車の勢力範囲であったことがわかります。

そのようなエリア中心の中でドイツを発着するCIWLプルマン列車が1つ見つかりました。それがOstende – Brüssel – Liege – Kölnを結ぶ"Ostende-Köln-Pullman-Express"を見つけました。この列車名から見つけたのが画像の時刻表付きOstende-Köln-Pullman-Expressチラシです。

これを見ると、ベルギーとドイツの国境であるAachen(フランス語でAix-la-Chapelle)からKölnまでドイツですから、牽引機関車はDRG所属です。この区間を03形が運用されていて実際牽引していたようでドイツの重厚な機関車に牽引されるCIWLプルマン客車列車も魅力的です。

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「比較的軽い列車は、SNCBのベルギーで最も重い機関車によって牽引された。 ベルギー国鉄は、1910 年に購入した NMBS/SNCB シリーズ 10 パシフィックをオーステンデとアーヘン間で使用しています。 アーヘンからケルンまでの短い区間で、ドイツ帝国鉄道は機関車の配置を数回変更しました。 当初は旧プロイセン製の17.0-1系および39.0-2系の機関車が使用され、1936年以降は新規格のDR系03系機関車が使用された。」
Wikipedia/ドイツ版(Ostende-Köln-Pullman-Express)から引用
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この時刻表を見るとロンドン(ヴィクトリア駅)を10:30に出発しドーバー海峡駅に12:11に到着。ここでフェリーに乗り換えて12:30には出発。(乗換時間が短いので乗客は大変だったろうと想像できます)15:30にオーステンデ港に到着するので、乗船時間は3時間。現在は海底トンネルをEurostarが走るので大きな違いです。おそらく船内でランチをゆったりと食べていると食後のコーヒーを飲み終える頃には到着するダイヤになっているのでしょう。オーステンデ港でいよいよ、CIWLのプルマン列車がフェリーからの乗換え客を待っていて、発車まで時間は55分とゆったりとしているため、国境検査などはここで行われるのでしょう。16:25にオーステンデ港を発車したプルマン列車は、ブリュッセル(北駅)に向かい、ドイツ国境のアーヘンには20:55に到着。機関車をSNCB(Reihe10)からDRG(BR 03)に交換して発車するのが、21:03です。ドイツ国内はラストスパートでケルンに向かい、到着は21:58と夜10時近いです。
プルマン列車の運用としては6時間半程度。プルマン車内では、カフェタイムに始まり、ディナーの供食(フルコースでしょう)があり、この列車のプルマンとしての機能は十分に果たしています。
また、この時刻表によれば、ケルンからは、ハンブルク、ベルリン、ライプツィヒへ夜行列車が接続しています。これはMITROPAなのかCIWLなのかは不明ですが、ロンドンからの乗客はケルンまで丸1日、ベルリンまでは1泊する旅程となり、当時の旅行は如何に時間を要したかが理解できます。私も幼少の頃から時刻表を読むのが大好きで、脳内旅行を楽しんでいましたが、欧州の場合は国境を越えスケールも違うので、更に楽しい妄想旅行ができますね。

さてその編成ですが、資料(Wikipediaドイツ語版)にある文章を記します。
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1925 年から導入された他の CIWL プルマン列車と同様、オステンド - ケルン プルマンはプルマン車と荷物車で構成されていました。 原則として「エトワール・デュ・ノール」タイプのプルマン車両のみが使用され、荷物車はSNCBから提供された。 導入当時、列車は 2 両のいわゆる「連結車」で構成されており、1 両はキッチン付きのプルマン車両、もう 1 両はキッチンなしのプルマン車両でした。 車両のうちの 1 台は 1 等で、残りの 3 台は 2 等でした。 世界経済危機による需要低迷のため、1930年代初頭から編成は厨房のない1等車と厨房のある2等車からなる連結器に縮小された。 乗客数が多い場合には、3 台目のプルマン車が追加されることもあり、そのときは「トリプラージュ」と呼ばれていました。 1929 年から 1933 年まで、この列車はオーステンデからベルリン、リガ、ワルシャワまでのオステンドとブリュッセル間のノルド急行の直通車両も運行しました。(Google翻訳による原文ママ)
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上記を整理すると、1930年年代の編成では、メルクリンモデルでも製品化されているCIWLプルマン客車(エトワール・デュ・ノール)厨房付きとなしの2両1ユニット(厨房なし1等プルマン"WP"+厨房つき2等プルマン"WPC")と荷物車(F)の3両編成で運用されていたようです。多客期はこれにもう1両の(厨房なし2等プルマン?)が増結され4両編成で運用されていたようです。ベルギーのOstende - Brüssel間は夜行寝台列車"NORD-EXPRESS"のKurswagenも連結されていたそうです。
*この記述では「CIWLプルマン客車(エトワール・デュ・ノール)で列車は組成されている」..とありますが、CIWLプルマン客車(エトワール・デュ・ノール)は2等のみなので、1等は「フレッシュ・ドールプルマン」、或いは「コート・ダジュール」プルマンになるはずです。(おそらくフレッシュ・ドールプルマンと想像します)

さて、冒頭にリンクしたメルクリンの配信した03形牽引のCIWL Pullman列車ですが、まだ製品化されていないSNCB Rheihe10とワーグナーデフ付きDRG BR03、CIWL Pullman Typ. "Étoile du Nord"、SNCBの荷物車による客車セットがリリースされることをちょっと期待します。更にはNORD-EXPRESSのOstende-Köln-Pullman-Expressに連結されるKurswagen(CIWL寝台車)が増結セットでリリースなどということになれば、更に嬉しいですし、”Ostende-Köln-Pullman-Express”ではなくても、1930年代大動脈の1つParis – Brüssel – Amsterdamに運用していた特徴的なサボがついた(茶/クリームの?)"Étoile du Nord"が製品化されるのも良いでしょうね。

ドイツのメルクリンファンはもとより、ドイツの蒸気機関車に牽引させたいCIWLプルマン客車は、この記事で少しその夢を果たせるのであれば嬉しいです。

参考文献:
Ostende-Köln-Pullman-Express/Wikipedia ドイツ

[EDIT] 2024-04-14
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コメント 3

東西急行

Akira様、東西急行です。
有用な情報賜り誠に有難う御座います。
御紹介のゲルマン圏内で運行されたPullman-Expressについて早速検索しました。
WPA+WPBCと云う組編成(ペディアで翻訳すると「連結車または連結器」)はPBA線含めパリ以北では一般的であった感が有ります。
寧ろカレー~パリ間及びパリ~南仏イタリー間の格が他より圧倒的に高かった裏返しとも思えます。
また1929年の金融恐慌で優良顧客がほぼ潰滅したことも感慨深く思います。
あのWLA-Lx10がAB-16やB?-20とされ、格下のWLB-ZやB-Yより便所が混む無惨な状態に転落したのも此の頃でした。
あの大惨事が無いか、発災が遅れればWLB-StDと云う2名個室11=定員22名の新WLB即ち寝台車版エトワァル・デュ・ノォル型がLxと同数落成したものと未だ夢想しています。
時刻表を読むことは当方も10歳未満の頃から楽しんでいました。
成人後は現在迄東京~欧州間を陸路で短期間連絡するには如何に列車を運用するか無駄な知恵を使っています。
全車寝台専用列車とした省鉄特急1・2列車も此の夢想から生じたものです。
by 東西急行 (2024-04-13 11:47) 

Akira

こんばんは、東西急行さま

1929年の世界恐慌の影響はアメリカに投資していた欧州の富裕層が被害を受け、没落のきっかけ(=CIWL列車利用者減)になったのでしょうが、それでもまだまだこうした列車が戦争の影響で1945年まで運転されていたのが興味深いです。
Lx10はCIWLでもトラン・ブルー専用の特別豪華な寝台車両として君臨していましたが、Lx20はシングル個室がダブル個室になったわけですから利用者レベルも大きく変わったことでしょう。トイレが混むというのは、オリエント急行のトイレの居心地が良すぎて中々出てこない...なんていう逸話を思い出しましたw
幼少期に時刻表を愛読するのは鉄道ファンの共通した性癖?かも知れませんねw
by Akira (2024-04-13 21:29) 

東西急行

Akira様、東西急行です。
世界恐慌に於ける主要国中最大の被害国は日本(金融政策の未熟振りに俄か大国の意地が燃料投下し輸出産業丸焼けで大正の大地震の際国外から貰った金を返す手段も潰滅以下略)と思いますが、欧州諸国もまた戦災で域内投資が限られ、其の分新大陸に振り向けていたと再認しました。
打撃がもう少し大きければLxのAB、B格下げ程度では済まず、Le-Train-Bleuに各Orient-Express等CIWL列車への簡易寝台車併結が促進されたとも考えられます。

by 東西急行 (2024-04-15 11:27) 

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