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Schürzenwagen / MITROPA Ep.II のまとめ [Maerklin-Reisezugwagen]

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ドイツがドイツという1国になる以前は、各地域の王国など幾つもの国に別れていたのはそう昔の話でもありません。詳しい歴史についてはウエブ検索で知ることができますが、今回の「Schürzenwagen / MITROPA Ep.II のまとめ」を作成するにあたって、Ep.IIという時代区分については知る必要があります。

メルクリンから1990年代にSchürzenwagenモデルが登場した最初の時代区分はEp.IVでした。メルクリンモデルは往々にしてオリジナルが完成した時代のモデルをリリースするのですが、この時は最後の活躍した時代のモデルをリリースさせています。
それから、一番Schürzenwagenが華やかだった時代のモデルとなった戦後すぐからのEp.IIIのモデルが続々リリースされ、当Spielkisteで紹介した多くの該当モデルがこの時代です。

さて、このモデルが設計製造された1930年代から1940年代は、第1次大戦から第2次大戦の狭間でもあり、文化的には様々な様式が華開いています。その影響は鉄道車両にも少なからず影響があり、直接的には、CIWL(ワゴン・リ)社がブルジョア階級以上向けに設計製造した鋼鉄製プルマン客車の内装にアール・デコのガラス工芸家ルネ・ラリックを起用するなど、当時はもとより、今もVSOEなどでビジネスとして動態保存されるほどの人気を誇っています。

一方、ドイツ・ベルリンに本拠地を置くCIWLのライバルはMITROPAでしょう。ベルギーに本拠地を置くCIWLが西ヨーロッパからアフリカ、東アジアにまで勢力圏が及んでいたのに対して、MITROPAは、ドイツを中心とした中央ヨーロッパとスイスのRhBに若干の勢力があった程度だと思われます。
華やかさとしては真っ白な屋根に紺碧、茶色やベージュとツートンに塗り分け、更に中央に向かい獅子のエンブレムが金色に輝く美しい車体のCIWL車両に比べ、やはり合理的に設計されたSchürzenwagenをベースにしたMITROPAの食堂車や寝台車は、地味な存在と言えるかも知れません。
それでも、ドイツらしい機能美を纏った車体の美しさは今もいくつかの静態、動態保存された車両を観るとその価値が理解できます。

私個人はEp.IIは蒐集外モデルにしているため、ほとんど持っていませんが、このMITROPAの文字が赤い車体に大きく記された食堂車と寝台車のモデルだけは発表とほぼ同時に注文してしまいました。
またメルクリンからは、この時代の微妙な政治状況も合わせてか、リリースされているモデルも多くはありませんが幾つかは市場に出ていますので、それも含めてここで紹介したいと思います。

[Speisewagen]
43256 WR4ü(39) / Mitropa 1206P
43258 WR4ü(39) / Mitropa 1213P
43241 WR4ü(39) / Mitropa 1215P

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43249 WR4ü(39) / Mitropa 1189P (Ep.V レストア静態保存車両)

[Schlafwagen]
43251 WL4ü(e) / Mitropa 22079P


なお、1997年にレストアされ保存車両となったMITROPA 1189P食堂車モデルについては、Ep.Vではありますが、登場時の姿を再現してあるため合わせて記しています。

不安定な社会情勢の中、蒸気機関車や石炭暖房などの煤煙で燻んだ大規模な駅構内に濃緑色の列車が行き交い、長距離昼行列車の編成に1両一際輝くワインレッドの車体に黄色のMITROPAマークと文字は、当時の旅行者にとっても憧れの風景だったのではと想像できるこのモデルの実車は、模型で再現したい欧州鉄道史の一コマでもあります。
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KDB

お久しぶりです。KDBです。
ミトローパは戦後東西に分割され、西側は株式会社のDSGに改名されましたが、東側はミトローパの名称のままVEB(人民企業)に改組されましたね。東のミトローパは寝台車、食堂車のほか、主要駅のレストランを経営していましたが、かなりお粗末だった記憶があります。Akiraさんが描かれているような戦前の場面が、戦後も東側では続いていて、暗い緑の客車の中に数少ない薄汚れた赤い車両が目立ちました。おまけに田舎駅のミトローパレストランは、実際には近傍工場等の従業員を対象にした「人民食堂」で、混雑の中、セルフサービスでお粗末な食事を自分で選び(歯が欠けそうなパン、肉分がどこにあるのか判らない中身のハンバーグ、泥を溶かしたようなコーヒー、今にも折れそうなプラスチックのナイフとフォーク、紙のようなペラペラの皿ーーー)、空いている席を何とか探して食べたものです。8人掛けの正方形テーブルが多数配置されていましたものの、私が開いている席に座ろうとすると先客が頭を振って拒否するのです。強引に座ったら、先客は逃げてしまいました。資本主義国の旅行者と同席は困るのでしょうね。これも今は思い出になりましたが、そのミトローパは東西統一後どうなったのでしょう?
by KDB (2020-02-05 13:34) 

Akira

こんにちは、KDBさん。

私も冷戦時代の80年代、東ベルリンからドレスデンへの旅行、そして統一直後にマイセンやルターシュタット・ヴィッテンベルク、ライプツィヒ、デッサウなどを旅行しましたが、アウトバーン(と呼べるほどでのないけど)のサービスエリアなどにMITROPAレストランを見ました。(入りませんでしたけど)

あと、東独にMITROPAの名前が残ったのは東ベルリンにMITROPAの本社所在地があったからとされています。しかし、戦後のMITROPAは名ばかりで、DRの食堂車・寝台車のサービスこそしていましたがマークが異なり、実質の車内サービスも共産圏的なものだったと思われます。(それでも黒海の保養地へと結ぶTOUREXのサービスはもしかしたら日本の食堂車・寝台サービスより良かったかも知れません。ハッキリしているのは、戦前と戦後のMITROPAは似て非なるものということでしょう。どちらかと言えば、サービスや設備内容は戦前のMITROPAから戦後はDSGに引き継がれたと思います。ドイツ人から聞いた話ですが、F-ZUGの食堂車サービスはTEEより更に豪華で素晴らしかったそうです。当然、そのサービスの対象となる人たちはTEEよりも更に少なかったとは思いますけど。

最後の質問のその後のMITROPAですが、ドイツ統一後ドイツの2つの鉄道会社のDBとDRも民営化と同時にDBAGに統一されました。そしてDRのMITROPAは、DSGと統一して再びMITROPAを名乗るようになりました。ただ、車体はDBの車籍になっていますからサービスのみMITROPAでした。スイスの食堂事業者も良く変わりますが、EWIV客車の食堂車も一時期MITROPAのロゴを纏っていました。つまり当時はDBとSBBの両方がMITROPAサービスだった時期があります。しかし、それも長くは続かず、結局DBに吸収される形で終焉を迎えています。MITROPA創立75周年の後の2003年だったような...。結局DR時代の負のイメージが最後まで足枷になっていたのが原因のようです。

MITROPAの名前が一番輝いていた時期は結局戦前のRheingoldやFliegender Hamburgerなどの紫/ベージュ車体の時代だったのかも知れませんね。
by Akira (2020-02-06 13:35) 

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