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42470-01,-02 CIWL Typ.F 1263, 1269 [Maerklin-Reisezugwagen]

CIWL_F_01b.jpg

CIWL鋼製客車の新製品セット(42740)ですが、まずお借りした画像のうち、荷物車(CIWL Typ. F)から紹介したいと思います。
*Typ. Fは、フランス語のLes Fourgons(荷物車)の頭文字から取っているものと推測できます。

CIWLのPULLMAN Expressは基本的に6両編成で、中央に4両のプルマン客車を挟んで両端に荷物車が連結されていて、この列車も同様に機関車の次位に連結される荷物車と最後尾に尾灯ランタンを掲げて連結されている荷物車の2両です。モデルでは以下の車体番号になっています。

・CIWL Typ. F:
- 1263(1263 - 1276)1928/29年 Metropolitan製
- 1269(1263 - 1276)1928/29年 Metropolitan製

上記記述のある資料には以下の備考が記されています。
1928/29 : 6 Portes, vigie au 1/3, les numéros 1271 et 1272 - 1274 à 1276 sonst affectés à l'Espagne.
***日本語訳***
1928/29年製造。全6扉、車体の1/3がキューポラによる外部監視窓。1271、1272、1274-1276はスペイン向け。
つまり、それ以外の(模型化された1263/1269も含めた)1263 - 1270、1273の計9両の同型荷物車は、広軌のスペイン仕様ではなく標準軌の台車を履いていたものと想像できます。

定員も極めて限られている3等級制時代(ALのみ4等級制)の1、2等のみの編成にも関わらず、2両もの荷物車が連結されているというのは、当時のブルジョア階級以上の富裕層が旅行に際してどれほどの荷物を持参して旅行していたかを良く物語っているように思います。しかし、当時はそうした多くの荷物と共に旅行した長期間であろう休暇(保養)旅行のご婦人だけではなく、多忙なビジネスマンのトップなど最もダイヤに正確で時間的にも到達時間が短いこうした長距離優等列車を使っていたはずで、全ての乗客が荷物車が一杯になるほどの荷物を持っていたわけではないと考えられます。今とは比較にならないほどの移動時間の長さは、運行会社のCIWLとして如何にお客様を退屈させないで目的地駅まで届け、再び利用してもらえるような満足度の高い旅を提供すべく様々なサービスを提供していたに他なりません。また極めて限られたセグメントの人のみがこの列車で移動することができなかった時代でもあったため、旅行中の車内はそうした方々の社交場の一面もあったでしょう。

CIWL_F_02b.jpg

この2両の荷物車モデルは、同じメーカーで同じ製造グループとして、同じ時期に製造された車両をモデル化しています。そのため、違いは車体番号の他、最後尾になる1両は赤色尾灯3灯が点灯します。戦前のドイツでは前照灯・尾灯とも2灯が規則でしたが、どうやらオランダ、ベルギー、ルクセンブルク・フランス(AL)では3灯でも問題なかったようです。(それとも経由国鉄道のどこかが3灯尾灯を義務化していたかも知れません)
特に戦前のフランスは、鉄道の国有化がされておらず、パリを中心に方角によって、またアルザス・ロレーヌのような地域で様々な民間事業者が鉄道事業を行っていて、このEDELWEISS PULLMAN Expressが経由するルクセンブルクからアルザス・ロレーヌ地方は1938年のフランス国営化までALの領域になっていました。

CIWL_F_Schlusslichtb.jpg
3灯が尾灯点灯する荷物車CIWL Typ.Fです。

Special Thanks(画像提供):T.Iさま

[参考資料]
L' INDÉPENDANT DU RAIL 64, 2/1969
アルザス=ロレーヌ鉄道/Wikipedia
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コメント 4

東西急行

Akira様、東西急行です。
ワゴンリ列車の両端に付く業務用客車は、片方が荷物者でもう片方が護送郵便車(車内で仕分け業務を実施しないもの)の様です。読み古した数十年前のムックに国境を跨いだ速達郵便輸送業務をワゴンリが請け負っていたとの記述が有りました。故に旅客の手荷物または重要な速達物件を積んでいるのは同じFourgon(=Gepackwagen、aは頭に二点付き)どちらか1輛となります。
またPullman-Expressは省鉄で云う所の特別急行1・2、急行7・8及び17・18相当の「名士列車」でした故此れが10本以上運行されていたEpⅡの20年間は口惜しくも羨ましい期間と云えます。
附記:WPB及びWPBCエトワァル=デュ=ノォル型は厨房抜きの定員が50名を超えており、概ね各国鉄道の一等車(フランス等では幹線仕業向け二等車)より若干格上でした。故に当方は「並プルマン」と呼んでいます。
by 東西急行 (2024-02-07 23:01) 

Akira

東西急行さま、こちらもご返事遅れまして失礼しました。

2両の荷物車の使い方詳細をありがとうございます。我々は常識的に郵便は郵便専用車を使うと思い込んでいますが、当時は必ずしもそうではなかったようですね。郵便事業者としては当時最も早く大量に輸送できる手段は鉄道でしたので、CIWLと契約して一部間借りしていたことは容易に想像できますね。

当時国際列車が各国の車両限界などまちまちで中々乗り入れもままならない状況であったことを考えると、最初から国際運用を前提に見据えた運用を前提とする列車を運行していたCIWLは各国鉄道事業者や国にとっても必要不可欠な存在だったように思います。単に線路が繋がっていればそれで良いというわけではないので、CIWLの車両設計はレベルの高いものと考えられますね。

Pullman-Expressについては、人気であったようでかなり多くの列車名があり、欧州各国で運用についていたと思いますが、車両数も限られていたので、やりくりはそれなりに大変だったのかも知れません。その中でも最も贅沢な仕様の1等コート・ダ・ジュールプルマンの1両が箱根に鎮座しているのは貴重だと思います。
一方、良く理解が及んでいないのは、夜行列車のSud Expressのプルマン車両で、夜行列車にも関わらず、どのように運用(一般の昼行列車運用同様の座席指定?)されていたのか、またサロンのような扱いだったのか..?興味は尽きません。
by Akira (2024-03-27 13:31) 

東西急行

Akira様、東西急行です。
御返信有難う御座います。
箱根ラリック美術館に残された一輛は、あのOrient-Express'88最後の生き残りです。
保有し動かしていた個人事業主が破綻し車輛も尽く散逸した現在、Voiture-Pullmanの実態を今に伝える貴重な存在です。なお本車と走った僚車は一部が東欧の某所で発見されましたが、再整備に当たり外観は兎も角車内は全く別仕様(何処か東南アジアの豪華周遊列車風)に改装される様で最早死骸の再利用でしか無い様です。
夜行列車のSud Expressのプルマン車両については寝台車と同様な青塗装ならば食堂車に改装されたものと思います。またプルマン車と同様な2色塗装ならば何か別目的です。
by 東西急行 (2024-04-03 20:38) 

Akira

東西急行さま、詳細な情報とコメントありがとうございます。
2006年にドイツの鉄道番組の取材で箱根のプルマンに会ってきました。NIOEの姿のままだったのが残念ではありますが、復原資料もそろわない中でレストアするのも良くないので、このままでも良いのかも知れません。以下当時のブログです。
https://maerklin-kiste.blog.ss-blog.jp/2006-10-20

また、ベラルーシとポーランドの国境近くに放置されていたNIOE客車たちは、ホテルチェーンのAccor(ワゴン・リ社を買収してブランド版権を持つ)が引き取り、現在鋭意「OE」として改造中みたいですが、復原を期待するファンにとってはちょっと残念なことになっているようです。現代の顧客ニーズに合わせることも必要でしょうが、それなら別の車両でやってほしいですね。
by Akira (2024-04-07 18:54) 

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