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Schürzenwagen / DB Ep.IVのまとめ [Maerklin-Reisezugwagen]

b112598.jpg

ここ数日間、Ep.IVのSchürzenwagen/DBモデルを題材に紹介してきたのだが、ようやくリリースされたモデル全てを紹介できたので、今回はそれらを纏めてみたいと思う。


[1. Klasse]
43200 Aüe 310 | 50 80 17-40 010-4

[1./2. Klasse]
43210 ABüe 334 | 50 80 38-40 101-5
29012-01 ABüe 334
29741-01 ABüe 334

[2. Klasse]
43220 Büe 366 | 50 80 29-43 723-5
47951 Büe 366 | 50 80 09-53 753-1
29012-02 Büe 366
29012-03 Büe 366
29741-02 Büe 366
29741-03 Büe 366

[Postwagen]
43260 Post -b/21 | 50 80 00-12 605-4
43269 (PMS 63-61) Post e | 51 50 00-11 703-3

[Salonwagen]
43257 Salüge 801 | 51 80 89-80 305-1

[Speisewagen]
Purpurrot
43240 WRüeg 152 | 51 80 88-86 180-9

Popfarbe
26512 WRügh152 | 51 80 88-46 160-4 | D 611 Olympia 1972
43919 WRügh152 | 51 80 88-40 219-4

Ozenblau/Elfenbein
43243 WRügh152 | 51 80 88-40 201-6

[Schlafwagen]
Purpurrot
43250 WLüg(e) 22 | 51 80 06-56 073-5


Ep.IVでは、鉄青色のF-Zug塗装Schürzenwagen車両もなくなり、統一された編成としての姿はほとんど見られなかったのではないかと思う。反面他の戦前形車両や、戦後の26,4m車両の中で活躍するシーンも見られ、雑多な編成の中でも、戦前形車両らしからぬ優雅な車体は、なお輝きを放つ美しい車両である事も間違いない。

残念ながら荷物車についてはEp.IVではリリースされておらず、その登場が待たれるのである。

[EDIT] 2020-1-3
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コメント 7

東西急行

Akira様、東西急行です。連休籠城を終え本日出勤して参りました。
御紹介の車輌群は第二次世界大戦後の新系列標準車(56式?新標準車群)、同車の部分改訂版UIC-X規格車を先取りする半流線型の外観が印象深いものが御座います(此の点後発乍ら鋼製ワゴンリ客車部隊に完全に勝っており、悔しくも見事也と思う次第です)。
併せて短い座席車、標準的寝台車荷物車に長めの食堂車補郵便車と、車種毎に全長が異なる点も他に無い特徴と存じます。
by 東西急行 (2010-05-06 23:02) 

Akira

おはようございます、東西急行さん。

連休はゆっくりとお休みになれたと理解して良いのでしょうか?
さて、Schürzenwagenが開発された当時の時代背景をみると、今と同じで、世界(おそらく日本は除く)が鉄道のスピード競争にしのぎを削っていたと思います。(場合によっては鉄道だけでなく自動車も)
既にドイツではSVTなど気動車では、かなりの実績があったでしょうが、短編成(つまり乗客定員)の問題もあって、増減可能な客車列車はやはり必要だったかと思われます。HWZは、その中でも固定編成だったので客車列車とはいえ、気動車と同じ問題も抱えていたのではとも考えられます。05形など流線形の大型蒸気機関車とSchürzenwagenの組み合わせは、当時としては最速の客車列車ではなかったかと...。
P-Zugさんによればイギリスのマラードが最高速度記録でやや勝っていたそうですが、その試験機関車は廃車になるほどのダメージを受けたそうですが、05形はその後すぐに営業運転を粛々とこなしていたとか。
Schürzenwagenは、流麗で美しい外観を持ちながらも、それは技術に裏付けられたものであることも確かだと思います。
by Akira (2010-05-07 08:58) 

東西急行

Akira様、東西急行です。
>世界が鉄道のスピード競争にしのぎを削っていた頃
>(おそらく日本は除く)
Schürzenwagenが就役したのは1936年頃ですが、我が省鉄は
1930年に超特急「燕」を、1934年には外地乍ら南満州鉄道が
超特急「あじあ」を運行していました。
新幹線構想の源流である弾丸列車構想で王手をかける目論見で
あったものの虚しく外れ、対外軍事行動に国家予算を吸い上げ
られ速度競争即ち民生部門の高度化どころでは無くなったこと
が実情の様です(嫌になる程に悲哀極まる後進国だった…)。
>マラード号、記録樹立するも缶ボロボロ再起不能
元々非力な英国機関車に特注の軽量化客車三両程度を牽かせ、
あまつさえ緩い下り坂の直線で叩き出した記録とも聞きます。
彼の国らしい「伊達気質」に心酔する気にはなれませんし、尚
更05型の超絶振り(圧倒的じゃないかッ鷲十字!)が際立ちま
す(其の癖05号の保有国に戦争で勝った…何とも皮肉です)。
by 東西急行 (2010-05-07 20:30) 

Akira

東西急行さん、こんばんは。

確かに仰る通り、あの頃は日本も列強に負けられないと鉄道の高速化には執心していたかも知れませんね。「燕」の運用方法はドイツのSVTに似ていなくもないかもです。(駅停車時間の短縮など)
速度的には狭軌の日本は欧州に及ぶべくもないでしょうが、可能な限りの最善策を取っていたのは事実でしょうね。

マラード号については、まぁ、ドイツも英国もわかっていたと...。プライドの高さが勝ったのかな..と。ドイツに居ると近隣国の悪口など良く聞きますが、こんなところにもその火種があったりするかもですね。(日本は遠方なので良かったのか悪かったのか...?)
by Akira (2010-05-07 21:07) 

東西急行

Akira様、東西急行です。早速の御返信誠に有難う御座います。
仰る通り半ば騙されて買わされた狭軌規格に政略(政策に非
ず)偏重でやたら曲線と急勾配ばかりの省鉄幹線の欠陥を乗り
越えることは常道的技術と規格では全く不可能でした。
振り子とタルゴと言う決定打を持たぬ以上、短車体の軽量客車
(構造は全金製航空機類似)しか速度向上の方途は無かったと
思います(高速と可動背もたれ式腰掛け、予約制の客席配食で
新時代の贅沢を御満喫下さい…思い付く分は自由だと…)。
Web百科サイトを見ますと「あじあ号」も亦、安全保障機関の
横槍さえ無くばより軽い車体で速度向上を図る目論見であった
らしいです。
by 東西急行 (2010-05-07 21:40) 

Akira

こんばんは、東西急行さん。

我が国の鉄道にしろ、電気設備にしろ当初小国として100年遅れていると言われていた時代に無理矢理押し付けられたような様々な規格を今もって使っている訳ですが、逆に考えれば新幹線のような完全に閉ざされたNBS規格の高速新線が60年代には出来上がった訳ですし、50Hzだの60Hzだの、直流や交流など様々な電化設備も車上対応出来るシステムを早くからやってのけたのは、問題があったからこそなんですね。良く英語圏の人間は、世界中で自国の言葉が通じるから外国語の勉強をしないなんて言いますが、確かにその通りで、日本人は島国故、外国語が苦手なんて言いますが、結構頑張っている方だと思います。
by Akira (2010-05-07 22:11) 

東西急行

Akira様、東西急行です。
速鉄トークに御高配賜り誠に恐縮です。
鉄道に限らず外界に強制された酷い条件下で頭を絞り、絶妙な
時期にドンッ!と巨大な果実を実らす点は我が国の特徴と思い
ます(美味しい美味しいとみんなが喜ぶ間も次の収穫への仕込
みは欠かせませんが…)。

by 東西急行 (2010-05-07 22:34) 

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