SSブログ

[絵画] 人形 (2) | 井上賢三 [ART]

IMG_2504b.jpg
「人形」カンバス 油彩

京都に行った亡き父の2枚目の人形の絵です。
これも1枚目と同様、晩年の作品。ヨーロッパの民族衣装を纏った人形を描いたものです。最初はフランスのアルザス地方の民族衣装かと思いましたが、頭の部分の形が違うのでどうやら違う地域のようです。
私がドイツに渡ってからも、もし父が生きていて画家をしていたとすれば、きっと人形を送れと頼まれたに違いありません。
晩年の父がどのように絵を描いていたのか、少し思い出してきたので書き記しておこうと思います。

私が幼少の頃は、一軒家の借家住まいだったと思います。家主は父のパトロンだったと聞いています。その場所は現在アークヒルズの敷地にあるサントリーホールになっているところです。その家は、建物自体はそれほど広くはなかったものの、(子供の目には)庭がジャングルのような深い森のようになっていて、幼かった私は建物と木々が生い茂る場所までの小さな庭でしか遊びませんでした。

その後、(アークヒルズ再開発により)立ち退きにあい、近所のマンションに引っ越していますが、ここでは絵を描くスペースはなかったように思います。そこで父はなんと渋谷区富ヶ谷に物件を見つけそこをアトリエにして通うようになりました。そこは1階が倉庫になっていて2階をアトリエとして使っていました。酷く古くてお世辞にも綺麗なアトリエではありませんでしたが、とにかく広い一間の空間で、そこで二科展に出品するような大きな絵も描いていたと思います。一時期は19ftヨットもこのアトリエで作ったくらいですから、その広さは理解できると思います。

私が小学校3、4年生の時、通っていた小学校のあった千代田区の施設が鎌倉にあり、風邪をひきやすかった私は、それを理由に2年間東京を離れます。両親が共働きだった私は、全寮制の施設にいたことで、両親が自由に好きな仕事に打ち込めたと今は考えています。
私が小学校5年生になったとき、六本木のマンションから少し広い間取りの赤坂に引っ越しました。そこでは1部屋を父の自宅アトリエとして使い、富ヶ谷と赤坂を通勤(というほどではないでしょうけど)していました。自宅でここにあるような比較的小さいサイズのカンバスの人形の絵を描いていた父が記憶に残っています。

その後父は肝臓ガンを発症、途中寛解期は自宅に戻ったこともありましたが、入退院をしながら私が中学1年の時、私が盲腸になって入院手術した時にいた同じ病院で父は息をひきとりました。子供だった私は何も知らされておらず、必ず治って退院すると信じていたのでショックは大きかったです。

あれから既に50年近く経っていますが、父との思い出は私が中学生になるまでのほんの僅かな時間でした。私の記憶には酒を嗜む父の記憶がありませんが、戦後の混乱期に飲んだ酒が原因で肝臓ガンになったのではと聞いています。おそらく父は息子の私と酒を酌み交わすことを楽しみにしていたのではと思いますが、それは叶わず、私自身も下戸に近い人間で息子と酒を酌み交わすのが楽しみ..とまではゆかないですが、既に実現している私は、そういう時、父のことを思い出すのです。
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:アート

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

Facebook コメント