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La passion des trains - Les grands express (n°38) [欧州鉄道]

YouTubeで観ることのできる動画は、日本国内のみならず、世界の興味深い鉄道の歴史を同地のドキュメンタリー映像などで観れるのは、車両のみならず、そこで行われていたサービスや食事風景など、私などにとって文字や写真のみの資料からしか得られなかった時代と比較するとその恩恵に浴することができたことを心の底から嬉しく感じています。

さて、そのようなたくさんの動画の中でも、昨日観たSNCF制作のDVD ?ドキュメンタリーシリーズの「La passion des trains」は、期待以上の情報が満載で一人感動して観ていました。
その中で、「La passion des trains - Les grands express (n°38)」は、このタイトルは「列車への情熱 - 特急列車(38回)」とでも訳すのが良いのでしょうか?
「Le Mistral 1969」の旅をテーマにしたパリから南仏保養地までの旅程を細かに記録した映像で感動モノ(私だけ?)です。以下にそのリンクを記します。

La passion des trains - Les grands express (n°38) / YouTube

最初は、レストア待ちのCIWL食堂車や寝台車を紹介し、その後これら車両が現役最後の1970年代の看板列車「Le Mistral」の機関車次位に荷物車、CIWLプルマン、CIWL食堂車、そしてInox客車の編成の車両が時速150Km/hで疾走するシーンや、その車内でのゆったりした時間を過ごす人々やサービスを南下する列車を車内外から紹介する当時のドキュメンタリーが挿入され、これが1時間弱の動画全体の中心を占めています。
特に食堂車でのサービスは、大皿から取り分けるコース料理で見た目も豪華、車内調理ですからきっと美味しかったでしょう。

私など1970年代は子供でしたし、映像での情報などほぼ全くない欧州の鉄道は夢でしかなかったですが、こうしてこの時代の様子がカラー映像で観れることで、当時の車両やサービスの素晴らしさを再確認できました。
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30 Jahre InterCityExpress [欧州鉄道]

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▲ ICE1が手元にないため、代役でICE-Vに登場してもらいました。

30年前の今日、6月2日にドイツの新幹線InterCityExpress(ICE)が営業運転を開始しました。
営業区間はHamburg=Altona - Frankfurt/M Hbf - Stuttgart Hbf - München Hbfの南北ドイツを結ぶ1路線のみ。このために準備された最高制限速度を出せる高速新線は、Hannover - WürzburgとMannheim - Stuttgartの2区間路線です。

DBより一足早く営業を開始したフランスのTGVが高い評価を受け、ドイツもそれに続いて開業を果たしました。日本が1964年に営業を開始した新幹線が高度経済成長に欠かせない重要な役割を果たした実績もあり、欧州での鉄道復権の切り札にもなる大きなプロジェクトでした。

営業開始の2日前、Hannover - Würzburgの高速新線上に新しく完成したKassel=Wilhelmshöhe駅でドイツのワイゼッカー大統領を始め、コール首相など政府要人も招待された式典で開業を祝いました。ちょうどその時、私自身はミュンヘンのDB DesignCenterでインターンシップをしていて、ハンブルクのS-Bahnや、121形機関車のデザインをしていた頃です。この式典にはデザインセンターからICE担当で長距離列車部門のボスであったP氏が呼ばれて出張していたことを記憶しています。

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▲ ICE開業にあたっての一般向けのパンフレット表紙。文字だけというのはDBの自信の表れ?

この時営業運転を開始したのがICE1と呼ばれる初代の量産型ICE車両で、ハード面では高速新線で最高速度280Km/hの許可がなされた機関車と客車の意欲的なインテリアデザインが特徴でした。(ダイヤは余裕を持って組まれていたので最高制限速度になることはほとんどなく、250Km/h程度と後にキャブライドで話した運転士から聞きました。)
当時、開放室と区分室の利用が拮抗していた時代もあって、客車は1等、2等共に1両の半分が開放室、半分が区分室というちょっと変わったレイアウトでした。また天井の高い食堂車の隣にはサービスカーとも呼べる車両があり、そこには電話やファックスなども備わった会議室も設けられていました。色調は彩度の抑えられたブルーや赤系の組み合わせで落ち着いた雰囲気を持たせていた一方で、このために設計したシートが重量感のあるマッシヴな形状で重々しい印象もありました。また、WCが各車両男女別に2つ並んでレイアウトされていて、男女専用のWCでは片方が待ち時間が多くなるなど問題もあり、現在は男女別ではないはずです。その他、InterRegioで好評だったデッキ部分のデポジット式ロッカーや開放室中央にレイアウトされたワードローブ、一部車両のシート後ろに航空機同様のオンボードビデオモニターなど、新しいアイデアや試みが数多く設えられた車両でした。

ICE1のインテリアデザインはStuttgartのBPR Designが担い、エクステリアデザインと全体のコーディネーションはDB Design Centerが行なっています。

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上画像の雑誌「Die Neue Bahn」(新しい鉄道)は、当時のDBがキャッチフレーズとしてDBロゴの横に記していたサブタイトルと同じ文言です。この雑誌はICE開業に合わせて別冊として発刊されたもので、ICEを様々な角度から取材し記事化したものです。ICE車両デザインについても記しています。

今やこのICE1も、13両編成のICE4 XXLの登場で、リニューアルはされたものの、そろそろ引退時期が近づいていると考えられますが、ドイツの初めての営業用新幹線車両として、登場当時は高揚感を感じたものでした。
今日1日は、30年前に思いを馳せて過ごしたいと思います。

参考文献:Die Neue Bahn / BAHN-SPECIAL 1/91 | GeraNova Zeitschriftenverlag GmbH München
タグ:ICE ICE1 ICE-V DB Ep.IV
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Gotthard Pullman Express [欧州鉄道]

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▲ CFF(SBB)とCIWLによる1927年の"Gothard Express Pullman"ポスター Quelle: Wikipedia


前回の記事でオリエント急行の名前で1992年に運行されたCIWLプルマンと食堂車によるクルーズトレインについて記しましたが、その時のチラシのオリジナルが上画像のポスターです。
これは、1927年に制作されたSBBとCIWL共同制作のポスターで、列車名称は「Orient Express」ではもちろんなく、「GOTHARD EXPRESS PULLMAN」と記されています。敢えて関係のない「Orient Express」の名称が使われていたのは、やはりCIWL客車をイメージさせるのには、Gotthard Pullman Expressよりも手取り早いから..でしょう。

運行は1927年からドイツ・フランスとの国境のスイス・バーゼルからイタリアのミラノを結ぶ列車で、CIWLのプルマンによって運行される以前は1909年以前からゴッタルド鉄道(GB)、また1909年以降はSBBによってGotthard Expressとして運転されてきた欧州南北を結ぶ路線を走る重要な列車でした。

運行されていたのは、バーゼル - ルツェルン - アルト・ゴルダウがCIWLの1、2等プルマン客車は「Côte D'Azurプルマン」による厨房なし1等、厨房つき2等各1両とSBBの荷物車の3両編成だったのではと考えられます。チューリヒ - アルト・ゴルダウも同様でアルト・ゴルダウ駅にて2つの列車が連結して6両編成でゴッタルド峠経由でミラノに向かうのでしょう。1930年には夏季に限ってですが、バーゼル始発ではなくパリ始発になりました。またパリからの編成は、途中BLSのベルフォート - デレ - ベルン経由でインターラーケンまでのFlugelzugとして、列車名も「Gotthard-Oberland-Pullman-Express」として運転されました。インターラーケンからレマン湖畔のモントルーまでの路線は今も多くの観光客が訪れるゴールデンパスルートで、当時から狭軌路線のMOBにCIWLのプルマン客車が"Goldenpass Pullman Express"として運行されていました。(今もプルマン車両はレストアされて動態保存車両としてMOBで運用されています)

機関車は、バーゼル - ルツェルン、チューリヒ - アルト・ゴルダウがAe 3/6 I形 と Ae 3/6 II形 が牽引し、ルツェルンからはBe 4/6形が牽引、1930年からはAe 4/7形がイタリア国境駅のチアッソまで連結されました。チアッソからは終着ミラノまでFSの680形蒸気機関車が牽引していました。

当初は、3月から6月までと9月から11月までの期間限定での運行でしたが、その後通年運転になりました。夏季の観光需要だけでなくイタリア・ミラノとスイスのバーゼル接続でパリやドイツ、オランダの諸都市からのビジネス利用も少なからずあったのではないかと考えられます。

しかし、この豪華プルマン列車も世界恐慌のあおりを受けて1931年に終焉を迎えてしまいました。
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Orient-Express in der Schweiz 1992 [欧州鉄道]

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ここ数回に渡りCIWLについて記してきましたが、私がまだカールスルーエにいた1992年、NIOEに資料請求したことがありました。その時届いたNIOEのパンフレット一式に同封されていた1枚のチラシがありましたので紹介してみます。

このチラシの表にはOrient-Expressの名前に入ったポスターが印刷されていて、その中にチューリヒからゴッタルド峠を超えてイタリアとの国境駅のチアッソまで往復運転する列車の案内がレイアウトされています。「Orient-Express」の文字の下には、「PULLMAN und SPEISEWAGEN」(プルマンと食堂車)と記されています。(このポスターのオリジナルは、1927年のバーゼル - ミラノを結ぶGottard Pullman-Expressのもので、敢えてOrient Expressとしているのは、その方がイメージが伝わるのでしょう)

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チラシの裏側にはこの列車についての車両や運行ダイヤ、運賃などの詳細が記されています。最上部には、NIOEのロゴマークがあるので車両やサービスはNIOEが担当し、最下段にSBBのロゴがあるのは、企画、販売などにSBBが関わっているようなイメージでしょうか。

このチラシによれば、車両はCIWL 4149 WPC(厨房なし) "Côte D'Azur"と4080 WPC (厨房なし)"Fléche D'Or"1等プルマン客車、そして食堂車の3両のようです。(食堂車の車体番号は不明)

車両の写真は、向かい獅子のCIWLエンブレムの左右に金の矢(Fléche D'Or)が描かれている4080 DEです。この車両はCIWLでロンドンーパリを結ぶ列車の大陸側を担うカレー - パリ間を結ぶ昼行列車の名列車「Fléche D'Or」専用の1等プルマン客車です。(後にEtole du Nordにも使われた?)

中央にレイアウトされている2つの平面図は、上が4149 "Côte D'Azur"、下がWR "Sud Express"とあります。 "Côte D'Azur"プルマンは、名前の通り、「Côte D'Azur Pullman-Express」や「Edelweiss Pullman-Express」、また「Gottrad Pullman-Express」など欧州各地でPullman-Expressネットワークを広げた車両の1つです。
食堂車に"Sud Express"の名称がある車両については、やや複雑な経緯があります。この車両は、元々1926年に製造されたCIWL 2737-2748のグループで製造された厨房つきとなしの1等プルマン客車ですが、2737-2742の6両の厨房つきのグループ(WSPC)の1両(2741)がNIOEに在籍していたので、この車両が食堂車として組成されているのだと思います。この2741は、後にポルトガル向けの食堂車に改造され、1等プルマン客車の面影は平面図からは読み取れません。

時刻表では午前9時過ぎにチューリヒを出発、チアッソには13時前に到着、チアッソから16時過ぎに出発、チューリヒに20時前に到着するダイヤで、往路では朝食とランチのコンビネーション(ブランチ?)、復路ではディナーが用意されます。1等車は2両のプルマン車(WPC)で、3等級制時代の1等車のレイアウトですからかなり贅沢な仕様になっています。(当時の乗車券は3等の2倍料金が2等車で、3倍が1等車の料金です。)
そして2等車は、元1等プルマン車の食堂車の座席が充てがわれるようですが、1等車に比べて現在の食堂車が1+2座席の配置と比較するとやや窮屈な感じでしょうか。
この編成から察するに、プルマン車が厨房なし仕様(WPC)のため、食堂車(WR)の厨房で調理された食事を、各車両に持ってゆくイメージだと思います。

現在はコロナ禍なので、こうした魅力的なクルーズトレインはないでしょうし、NIOE自体が破綻していますので、なかなか再現されることはないでしょうが、1920年代後半から30年代に掛けて、このルートを"Gottard Pullman-Express"が走った時代を彷彿とさせる、こうしたクルーズトレインができる環境は、歴史と文化を重ねた車両を大切に保管していたNIOEを運営するIntraflug AG社があってのことだと思います。
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名探偵ポワロ 「青列車の秘密」 [欧州鉄道]

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▲ "Train Bleu"の英語ポスター。北部鉄道、CIWL、PLM3社共同のポスターです。S形寝台車の時代でしょうか。


昨日のエトワール・デュ・ノールの話題からではないですが、今回は同じCIWLが運行した国内夜行列車「Train Bleu」(青列車)のテレビ番組が22日に放映されるのでそのお知らせです。
現在、毎週土曜日午後に放映されている名探偵ポワロですが、放映当初からこの「青列車の秘密」を楽しみにしていました。今まで数回NHKでこのシリーズが放映されていますが、中々このタイトルを観ることが叶わず、ようやく..という思いでビデオの録画予約もしました。
以下に番組ページへのリンクを貼っておきます。

名探偵ポワロ 「青列車の秘密」/ NHK-G

アガサ・クリスティの小説の名探偵ポワロは、オリエント急行殺人事件が有名すぎて、同じCIWL列車を舞台にした「青列車の秘密」は、オリエント急行に比べてさほど知られていないように思います。
箱根のラリックミュージアムのプルマン客車(Côte D'Azur)も、本来なら昼行列車である「コート・ダジュール・プルマン・エクスプレス」向けなどに製造され運用されたのですが、「オリエント急行」と紹介されるわけですから、この名前の認知度は、おそらく世界で最も有名な列車名なのでしょう。

さて、この日本語題名「青列車」で仏語表記では「Le Train Bleu」です。この列車は、1886/1887年冬ダイヤから"Calais-Mediterranée Express”が列車名としてカレーからPLMのパリ・リヨン駅と南仏ヴェンティミリア(一部はKurswagenとしてサン・レモまで延長運転)を運行開始され、1922年新しいS形鋼製車両の登場で名称を"Train Bleu"に変更。更に1929年にはLx10の登場によりCIWL屈指の豪華夜行寝台列車となりました。寝台車は各車両に専属のスチュワードが乗務するCIWLの最も豪華なLx寝台車の他、食堂車では5種類の料理を楽しめるコース料理を提供、サロン(これはプルマン車両?)やバー車両、荷物車の3等級制時代で全席1等車扱いの組成で運用され、当時のシンプロン・オリエント急行よりも豪華な設えであったようです。

"Train Bleu"の処女列車は、ロンドンからの接続列車でフェリーで到着した乗客を乗せ、1922年12月8日 13:00にカレーを出発、パリ・北駅到着後、パリ大環状線(Ligne de la grande ceinture de Paris)を経由してパリ・リヨン駅へ。夕方の早い時刻にパリ・リヨン駅を出発、ディジョン、シャロン・シュル・ソーヌ、リヨンを経由して早朝マルセイユに到着。更にコート・ダジュールのトゥーロンまでの行程を走り、一部の客車はKurswagenとしてサン・レモまで運行されました。

この列車の主要な乗客はロンドンからの旅行者だったようで、パリは主要駅として停車しますが、ドーバー海峡の港町で英国からの主要ルートのカレーから走ったのは今のVSOEと同じです。ポワロも英国ロンドン在住ベルギー人という設定ですから、ドラマの設定は違和感のないものです。そして番組に登場する寝台車がS形かLxかで時代考証もできますね。

この番組を既に観た方からは、余り期待はしないほうが良いとのご指摘はありますが、如何せんまだ観ていない番組ですし、映像で実際CIWLのLxやWRが登場するのか、セットなのかも含めて目を凝らして観たいと思っています。

参考文献:125 Jahre CIWL Die Luxuszüge - Geschichte und Plakate / EK-Verlag

[EDIT] 2021-05-21
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Étoile du Nord [欧州鉄道]

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SNCBの1形機関車がメルクリンH0モデルでリリース(既にメーカー完売)され、それに因んで、先日は"EDELWEISS PULLMAN-EXPRESS"の記事を記しましたが、今回はパリ - ブリュッセル - アムステルダムを結んだ名列車"Étoile du Nord"について記したいと思います。

Étoile du Nordと言えば、TEE時代が一番馴染みがあると思うのですが、そうではなくこの列車が運行始めた1920年代の話です。
CIWL(ワゴン・リ)社は、1926年にパリ - ロンドンで初めて昼行用プルマン列車の運行を始めた大陸側(パリ - カレー)の"Flèche d'Or"を担い成功を収めました。当時パリを中心に需要が多かったのは、ロンドンのほか、CIWLの本社のあるブリュッセル、アムステルダム方面だったこともあり、プルマン列車のネットワーク拡大の初めての路線にこの路線を選び1927年から運行を開始しました。

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▲ 1927年にカッサンドルにより制作された"Étoile du Nord"の素晴らしいポスター

この列車のために、組成されたCIWLのプルマン客車は、1等が"Flèche d'Or"から流用されたWPC/WPSCで、2等は新たに厨房付き(WPSC)の4091-4110の20両と厨房なし(WPC)の4111-4130の20両の合計40両です。この40両のプルマン車両は列車名を取って"Étoile du Nord"と名付けられています。組成はプルマン客車お約束の厨房を中央に挟んだ2両1ユニット、そして両端に荷物車で構成された列車になります。

列車の運行は1927年5月5日から開始されたようですが、当初はブリュッセルで3時間停車だったそうです。定時運行となったのは5月15日からとなったようで、午前中双方の駅を出発した同列車は夕方終着駅に到着というダイヤだったそうです。

カッサンドルによるポスター制作など宣伝効果もあってか、この列車は大変な人気となったようで、当初の1等2両、2等4両、両端の荷物車を8両編成だったのが、1等の2両増結となり10両編成のプルマン列車となり、商業的には成功したようです。1929年からはパリ - ブリュッセル - アントワープを結ぶ列車"Oiseau Bleu"が新たに1往復追加されました。

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▲ 貴重なÉtoile du Nordの写真。独特なデザインのサボはアール・デコです。

この2つのプルマン列車は、長距離国際列車では初めて国境駅での停車をせず、パリ - ブリュッセル・ミディを途中無停車で走りました。そして国境パスポートと税関の管理を移動中の列車で行われ、荷物は出発前と到着後にチェックされました。これらの施策で同区間の列車としては最速列車の1つとなり、所要時間は7〜8時間とのことです。

そして第2次世界大戦が勃発前の1939年9月3日を最後に他のプルマン列車と同様廃止されました。

このÉtoile du NordやOiseau Bleuが復活するのは戦後しばらくしてからですが、Pullman列車の主要顧客である王室、貴族などは次々と没落してゆく中で需要がなくなり、やがてTEEへと道を譲ることになります。
CIWLの一番の華やかだった時代はプルマン客車が登場し、欧州にネットワークを築いた1920年代半ばから第2次大戦前の30年代までだったように思います。つまり10年余りという短い期間、世情不安の中がCIWLの輝いた時期に重なるのは何とも皮肉なものです。

なお、この2つの列車がSNCB内の運行で1形機関車に牽引されたかどうかは未確認です。

参考文献:125 Jahre CIWL Die Luxuszüge - Geschichte und Plakate / EK-Verlag
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europian sleeper [欧州鉄道]

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ÖBBによるNightJetの商業的成功によって現在の外出制限に喘ぐヨーロッパでも更なる路線拡大が計画されるなど、欧州での夜行列車への期待は膨らむばかりですが、この状況はÖBBだけではなく他の民間鉄道事業者でも同様の動きがあるようです。

その1つが2022年春からの運用開始を目指すeuropian sleeperです。以下に専用サイトが配信されましたのでリンクします。

europian sleeper

サイトを見ると、どうやらチェコで昼行列車の事業を行なっている民間事業者のRegioJetを運営する会社と関係があるようです。運行区間はプラハ - ベルリン - アムステルダム - ブリュッセルとのこと。
このサイトに掲載されている画像を見ると、車両はRegioJet同様、状態の良い中古の簡易寝台車や寝台車をリニューアルして使うようなイメージです。

昼行列車のRegioJetでは、価格もさることながら寿司をいち早く車内販売で販売するなど車内サービスに力を入れていますから、europian sleeperも車内サービスには期待が持てます。
現在、RegioJetはプラハを中心にウィーンなどへの国際線も運行していますが、今回は西ヨーロッパへの運行開始で、路線がダブることはないでしょうが、NightJetと良い意味で競争関係になるような期待を感じさせてくれます。

戦前ではベルギーの完全民間会社のCIWLが富裕層の顧客相手に独自の夜行列車や昼行列車を運行し、それに対抗する形でドイツのMITROPAがライバルとしてサービスにシノギを削ってRheingold-Expressなどが運行されていました。
今回これとは違った社会環境のなかで、奇しくも鉄道移動が見直され、再び夜行列車に社会が目を向ける中でÖBBのNightJetや今回紹介したRegioJetのeuropian sleeperの登場、更にはドイツのTEEN、SNCFも計画している夜行列車の登場が計画されるなど、最近電車タイプの昼行列車ばかりになった西ヨーロッパの長距離列車に夜行の客車列車が加わることは、趣味的にも期待が大きく膨らみます。
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Deutsche Bahn plant Rückkehr zu Abteilen [欧州鉄道]

ドイツのDER SPIEGEL誌のWeb版にこのようなタイトルの記事が出ていました。以下にそのリンクを記します。

Deutsche Bahn plant Rückkehr zu Abteilen / DER SPIEGEL

この記事によれば、DBのICEを始めとした長距離列車の多くの利用者から、そのほとんどを占める開放室ではなく、区分室を求めているとのことです。
それに呼応する形で、DBでは再び区分室車両の開発を始めるとのことです。

考えてみれば、ICE3(403/406)やICE-T(D)(415/417/605)には登場当初区分室車両がありましたが、インテリアのリニューアルを機に区分室車両はファミリー個室を残すだけで、一般座席車両の区分室は無くなってしまいました。これはICE3の座席数を増やすことが背景にあったように感じます。
現在ICEでは、ICE1のみ区分室があるだけで、現在増備もしているICE4にも区分室はありません。

さて、DBでは現在長距離列車の標準となっている開放室ですが、ルーツはTEE時代の62系列客車Apmh 121に辿りつきます。当時は1等も2等客車も区分室が主流で、1962年に登場したF-Zug向けの1等車で初めて登場した開放室客車は編成に1両ある程度でした。しかし、徐々に区分室より開放室がもてはやされるようになり、隣国のスイスの昼行列車用車両は、ほぼ開放室になりつつあったこともあるのか、2等車についても1979年のIC/ECに開放室客車Bpmz 291が登場。陳腐化が見えていたBm235より最初から最高制限速度200Km/hを前提に設計された開放室客車の快適性が優位になり、開放室客車の割合は増えて来たように思います。

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▲ Aim 260

一方で区分室客車の要望も一定数あり、それまでの閉じられた6人用区分室ではなく、1988年から登場したInterRegio客車では左右デッキ付近の5人用区分室と中央部分の10人用と15人用半区分室を組み合わせた車両が登場したり、同年IC向けに左右デッキ付近の区分室と中央部分の4人用区分室+向かい合わせ席を組み合わせたBvmz 185の登場など、新しい区分室のあり方を模索した試みがありました。
その後登場したICE1では、1両に区分室と開放室を組み合わせた室内レイアウトで登場しています

おそらく1990年代までは、開放室が主流になりつつも新しい区分室のあり方を考えていたのでしょう。
それより前の1983年にはNemeister Designが、スタディで長距離列車用の新しい区分室を提案していますが、それは5人用区分室で、仕切りはICE3同様パーテーションで仕切られた区分室でした。側廊下にも、単に移動するだけではない機能を加えた斬新な提案でした。

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▲ Bvmz 185

そのような中でもICE2は全て開放室となり、それを知った時は落胆したものです。しかし、その後登場したICE3では再び区分室が登場し、それは1983年に提案した区分室同様パーテーションでしたが、その後のリニューアルで、これら区分室は撤去されファミリー個室以外は全て開放室になりました。そしてICE3(407)やICE4に当初から開放室で現在に至ります。一昨年発表されたTalgo ECxについても開放室のみの提案でした。

そしてここに来てICEに再び区分室が検討されているというこのニュースは、ちょっとした驚きでもあり嬉しくもなりました。
ただ、今回の利用者の要望というのは、様々な背景も考えられます。従来からの区分室希望もあるとは思いますが、コロナ禍ということ。更には、この記事にもあるように利用者の増加が見込まれていてそれにも対処しなければならないことです。コロナ禍はいずれ終息するので現在のような利用者減も同時に終息に向かい、環境問題から航空機からの乗客の利用シフトが予想される中で、長い目で見ると利用者の増大と列車増は織り込まなければなりません。

そのような状況下での新しい区分室車両のあり方はどのような形になるのか、今までのような単純な5人用区分室ではなく、新しいそして感染症にも対応できるインテリアが求められます。期待を持ってその登場を待ちたいと思います。
タグ:DB AG ICE Ep.VI
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Orientrotの111形 [欧州鉄道]

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ここ数回、185系定期運用終焉でその思い出ばかり記しましたが、今回はドイツで廃車解体が進む111形機関車について記したいと思います。

この機関車については、まとめページを作っていますので、メルクリンモデルについてはリンク先をご参照ください。

私がドイツに渡った1988年には新しいDBのCIを元に漸く新しい塗装色の車両が運用に就き始めていて、まだまだタルキスカラーが数多く在籍する中で、新鮮に映ったのがこの111形です。
上画像は、インスブルック西駅で撮影した111形041号機です。メルクリンから単品発売されたOrientrot色と同番号です。

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画像は111形の運転台です。
111形は、それまでの機関車の運転台から人間工学の要素を取り入れた設計となり、造形上も以前の機関車より整理され見た目が随分変わりました。現在の機関車の運転台も、これがその出発点となっているはずです。

この時は、ガラス電車ツアーに申し込んだものの故障で乗車できず、代走としてやってきた機関車でした。目的地駅のオーストリアのÖtztal駅で、ツアー参加の希望者には運転台見学もさせてもらいました。メルクリンモデルと同番号ということもあって、ガラス電車に乗れなかった悔しさも、ツアーガイドさんの献身的なホストぶりとサービスに幾分晴れた思いになりました。

111形は廃車が進んではいますが、既にトップナンバーはオリジナルのタルキスカラーでDB Museumで動態保存されています。廃車されているのはほぼ全てVerkehrsrotのようですが、このOrientrotも1機程度は残して欲しいなぁ...と思います。
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BahnGlanzLicht - Die Dampflokomotive [欧州鉄道]

このブログでも時々話題として登場するドイツの鉄道放送モデレーターのHagen von Orthoffさんが、南西ドイツ放送局を退職されて久しいですが、現在はYouTubeに独自のチャンネルアカウントを持ち、時々興味深い鉄道関連の話題をアップされています。

今回アップされたのは、75年前(1946年)に発刊された「Die Dampflokomotive(蒸気機関車)/ Otto Remmert著」という挿絵付きの本についてです。
以下にそのYouTubeリンクを貼ります。

BahnGlanzLicht - Die Dampflokomotive

この映像をご覧になれば理解はすぐにできると思いますが、蒸気機関車がどのような構造になっていて、その動きの源の構造をわかりやすく美しい挿絵とともに解説しています。
その挿絵ですが、表紙の絵を見てすぐに馴染みのあるタッチであることがわかります。作者は Josef Danilowatzで、長くメルクリンカタログの表紙の挿絵を描いていた作家です。写実的な精密な描写ではありませんが、しっかりと構造を理解した上で印象深く観るものを惹きつける力を持った絵が魅力的です。

随分昔の話になりますが、メルクリン本社の階段室だったかに数枚のメルクリンカタログになった彼の絵の原画?が額装されて飾られていたのを覚えています。

そして、この本の表紙の絵ですが、実はメルクリンカタログに掲載されていたものと同じようです。
この絵はモチーフとして2011年のIMA会場で販売された貨車のモチーフにもなっています。トリミングしているのですが、トンネルの中から観た走ってくる列車の絵だということがわかります。

日本でもこうした挿絵の入った図鑑はありますが、1946年発刊と言えば戦後間もなくのこと。ドイツも日本も敗戦の復興が始まったばかりの頃と思われます。そうした中でもこの本の存在が興味深いですし、Hagenさんが素晴らしい本として紹介したくなる気持ちも理解できるところです。
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